第14話 夜の記録庫
「監察院の内部記録そのものは渡せません。私人間の事件へ流用すれば、こちらが手続きを破ることになる」
ホノカの店先で、セドリックは閲覧票だけを差し出した。
だが、リツは落胆するどころか、頷いた。
「分かりました。内部記録が直接使えないのなら、外部の公的記録から同じ事実に辿り着けばいいのですね」
「ええ。該当の医師が王都を離れていたのなら、街道の関所や宿場町で通行税を納めた記録が残っているはずです」
「王国勅許代訴人の権限に基づき、正式な閲覧請求を行います。王立記録庫へ行きましょう」
リツは閲覧票を受け取った。証拠ではない。正規の手順で、同じ事実へ辿るための入口だった。
王都の中央に位置する夜の記録庫は、冷たい石壁に囲まれ、古い羊皮紙とインクの乾いた匂いが立ち込めていた。
閉館を知らせる鐘が鳴るまで、残り一刻もない。薄暗いガス灯の灯りの下で、リツとセドリックは手分けをして膨大な台帳の山と格闘していた。
王都の出入りを記録した通行税の台帳、各領地の宿場が提出した宿泊記録、そして医師たちの往診台帳の索引。重い革張りの背表紙が擦れる音だけが、静寂の中で響き続ける。
「二年前の冬の月。該当する関所の記録を探します」
リツは高い棚に背伸びをし、分厚い通行台帳を引き抜こうとした。
その瞬間、台帳の重みに耐えきれず、右手の甲に鋭い痛みが走った。
「っ……」
今朝、パンを焼く際に窯の熱い鉄扉に掠ってしまった火傷の痕だった。無理な力がかかったせいで薄い皮膚が裂け、じんわりと血が滲み出している。
台帳を取り落としそうになったところを、横から伸びてきたセドリックの腕が支えた。
「無理をしないでください。貸して」
セドリックは重い台帳を机に置くと、そのままリツの右手を取った。懐から清潔な白い布を出し、火傷の痕へ巻き付ける。一度結んだ端を、きつすぎたのかとほどき、最初から巻き直した。
「すみません、自分でできますから……」
「あなたの手が動かなくなれば、依頼人はもちろんですが……私も困るのですよ」
布の端を結びながら、セドリックは視線を落としたまま言った。
問い返せば、今より近い場所へ踏み込んでしまう。リツは巻き直された白布を見つめ、小さく礼を言った。
「ありました」
やがて、火傷を庇いながらページをめくっていたリツが、小さく声を上げた。
「二年前の冬の月、該当の医師の通行記録です。彼はこの時期、王都から馬車で三日かかる遠方の領地に滞在し、そこに宿泊していた記録がはっきりと残っています」
セドリックもその記述を覗き込み、頷いた。
「診断書の日付と一致します。医師は王都から北へ三日、エレノア夫人は南へ四日。二人が診察室で会うことはできません」
最大の関門であった医師の不在証明は、正式な手続きによってクリアされた。
だが、リツはまだ納得していなかった。なぜ、ヴィクトルはわざわざ『三年間』も妻を放置し、その後に虚偽の診断書を使って離縁しようとしたのか。単に妻が気に入らないだけなら、もっと早く、別の理由をつければよかったはずだ。
「セドリックさん。閉館までまだ少し時間があります。ヴィクトル伯爵が三年前、婚姻の直後に公証人役場で行った取引の索引も確認したいのですが」
「伯爵個人の記録ですか。構いませんが、何を探すのです」
「分かりません。ですが、彼が『三年間』という時間にこだわった理由が、どこかにあるはずなんです」
リツは関連する公的な財産記録の索引を次々とめくっていった。
そして、一つの奇妙な記録に辿り着いた。
「これは……借財の記録ですね」
リツは目を細め、その一行を指でなぞった。
「ヴィクトル伯爵家は三年前、エレノアさんと婚姻を結んだ直後に、大きな事業への投資のために莫大な借財を負っています。そして、その借財の返済期限は……『三年後』」
婚姻から三年。それは、エレノアがヴィクトルから離縁を突きつけられた時期と完全に重なっていた。
リツは手元のメモ用紙に、借財の返済期限と、その総額を書き出した。
さらにその横に、エレノアが実家から持参した『持参金』の額を書き込む。もし妻の身体的欠陥を理由に離縁が成立した場合、持参金は慰謝料として夫側に控除され、返還しなくてもよくなる。
書き並べられた二つの莫大な数字。
それらは、銅貨一枚の狂いもなく、完全に同額だった。
夜の記録庫の冷たい空気の中で、リツは背筋に粟立つような悪寒を感じていた。
返済期限と、離縁の時期。
借財の額と、持参金の額。
同額の数字が、離縁と借財を一本に結んでいた。




