第15話 診てもいない医師
王立監察院の取調室は、医師が診察に使う部屋より狭かった。
長机を挟んで座った初老の男は、それが気に入らないらしい。外套を脱ごうともせず、胸の金色の記章を何度も指で直した。
「私は王都で二十七年、人の命を預かってきた。パン屋上がりの代訴人に診断の是非を問われる筋合いはない」
「診断の是非は問いません」
リツは三枚の書類を机へ並べた。
診断書の日付。北の領地にある宿の宿泊簿。同じ日に、エレノアが南の領地の薬舗で薬を受け取った記録。
「診察した場所を教えてください」
医師は診断書だけを引き寄せた。
「日付の転記がずれたのだろう」
「何日ずれましたか」
「二年も前だ。正確には覚えておらん」
「前後七日間、あなたは同じ領地で往診しています。関所の通行簿にも帰還の記録はない」
リツが宿泊簿を重ねると、医師の爪が記章の鎖を引いた。小さな金属音が、石壁に囲まれた室内へ残る。
壁際で記録を取るセドリックは口を挟まない。医師が視線で助けを求めても、ペン先を止めなかった。
「伯爵家から、夫人の症状を詳しく記した報告が届いていた。長年診てきた家だ。必要な情報は揃っていた」
「エレノア夫人の脈を取りましたか」
「報告で判断できる症状もある」
「身体へ触れましたか」
「無礼な聞き方をする女だな」
「触れましたか」
医師は答えず、水差しへ手を伸ばした。杯の縁が歯に当たり、乾いた音を立てる。
「直接診察はしていない」
ようやく落ちた言葉を、セドリックのペンが拾った。
だが、そこから先は崩れなかった。
「伯爵家の使者が正式な症状書きを持参した。私は記された症状を医学的に評価し、証明しただけだ。離縁に使うなど知るはずもない」
「使者の名は」
「守秘の義務がある」
「病名を指定したのは」
「私の医学的判断だ」
「では、その判断の根拠となった症状書きを提出してください」
「保管期限を過ぎた。残っていない」
用意された逃げ道だった。依頼主をヴィクトルと結びつけるものは、何も口にしない。
リツが署名付きの供述書を差し出すと、医師は内容を読んで押し返した。
「私が認めたのは、対面していないという一点だけだ」
「承知しました。査問会でも同じ説明を、宣誓のうえでお願いします」
医師の手が止まった。
「私を偽証者扱いする気か」
「今日と同じ事実を話されるのであれば、何も問題はありません」
リツは書類を重ねた。診察していない事実は取れた。誰が虚偽の材料を用意し、誰が金を払ったかは、まだ空白のままだった。
控室では、エレノアが窓のない壁を見つめていた。
報告を聞き終えても喜ばない。膝の上で、片方の親指がもう片方の爪を押し続けている。
「病気が嘘なら、夫からの離縁は止められるのでしょうか」
「止められます」
「でも、止めてどうなるのです」
エレノアは自分で答えた。法廷で夫を負かしても、愛情は戻らない。妻の座へしがみつく女と呼ばれ、次は別の理由を作られるだけかもしれない。
リツは返還額の話をしかけ、唇を閉じた。数字で先を塞ぐのは、前にもした。
代わりに診断書をエレノアの前へ置く。
「この紙から、何を消したいですか」
病名の行へ、エレノアの視線が落ちた。
三年間、夫が寝室へ来ないのは自分の身体に理由があると信じていた。だから共同生活を拒まれても、夫には正当な事情があると思い込み、一年目で婚姻義務違反を申し立てることなど考えもしなかった。
「私が欠けた妻だった、という記録です」
一度目はかすれた。エレノアは息を吸い、もう一度言った。
「愛されなかったことまで、病気のせいにされたくありません。私が悪かったから三年を失ったのではないと、公の記録に残したい」
離縁を防ぐだけでは、その望みは叶わない。虚偽を作った側の責任を確定し、エレノア自身の申立てで婚姻を終わらせる必要がある。
リツは記録庫で見つけた借財の索引を開いた。満期は婚姻から三年後。元本は持参金と同額。今はまだ、奇妙に揃った数字にすぎない。
「婚姻契約書の控えと、伯爵家にいた間の出納帳をお持ちですか」
「自分の支出だけは、毎月つけていました」
「誰よりも読めるのは、あなたですね」
エレノアは初めて、診断書ではなく借財の数字を見た。
「持ってきます。私が読みます」




