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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第16話 三年後に捨てるための結婚

夜の厨房で、エレノアは自分の出納帳を開いた。


 ランプの下には婚姻契約書、王立記録庫から写した借財証文、三年分の帳簿がある。リツは向かいに座ったが、最初の頁へ手を出さなかった。


「あなたの字です。読んでください」


 エレノアは婚姻した月の支出から辿った。衣装代、侍女の給金、領地から届いた果物。項目を追う声は頼りなかったが、頁をめくる指は止まらない。


 やがて、毎月同じ日、同じ額が引き出されていることに気づいた。


「これは、新規事業の積立だと聞かされました」


 リツが借財証文の利息欄を隣へ置く。


 数字はぴたりと重なった。


 初めの月だけではない。次の月も、その次も。エレノア自身が家政係へ渡した金が、一度も知らされなかった借金の利息へ流れている。


「私が節約すれば、領地へ新しい織物工房を作れると」


 エレノアは別の頁を開いた。冬用の外套を買わず、古いものを仕立て直した月だ。その翌日にも、同じ額が引き出されていた。


「あの人は礼を言いました。家を思うよい妻だと」


 ランプの芯が弾けた。


 婚姻直後に組まれた借財の元本は、エレノアの持参金と同額。満期は今月末だった。


「三年間、私のお金から利息を払い、最後に持参金そのものを取るつもりだった」


 リツは答えず、婚姻契約の細かな条項を開いた。


 三年以内に後継がなく、その原因が妻の身体にあると認定された場合、夫家は家門維持の補償として持参金を控除できる。


 エレノアは一度読み、診断書をその横へ置いた。


「子宮虚脱症」


 今まで別々だった三つが、一つの線になった。


 三年の満期。後継がいないこと。妻側の病気。


「でも、子どもができていたら」


 エレノアは契約を数頁戻した。子が生まれれば、持参金の大半はその子の相続保護財産となり、夫家は借財へ流用できない。


「だから、あの人は来なかった」


 夫が寝室へ来なかった夜の数だけ、答えがあった。


 愛人に夢中だったからでも、自分に魅力がなかったからでもない。子を作らず、満期の日に病人として切り離すためだった。


 エレノアは泣かなかった。


 出納帳を最初へ戻し、自分の字で記した支出を読み直す。薬代。医師への季節の贈答。夫の好物を取り寄せた費用。寝室へ彼を迎えるため、新しいシーツを買った月もある。そのシーツは一度も使われず、洗濯帳には未使用のまま保管庫へ戻したと記録されていた。


 事実は三年前から、彼女の手元にあった。ただ意味だけを、別の物語へすり替えられていた。


「この帳簿を査問会へ出します」


「ご自身の暮らしも読まれます。薬を買ったことも、旦那様を待っていたことも」


「構いません」


 エレノアは、外套を買わなかった月へ指を置いた。


「私が何を信じ、何を我慢したかまで残してください。あの人の計画だけで、私の三年を説明されたくありません」


 リツは帳簿の端へ証拠札を挟んだ。黄ばんだ紙に、小さな赤い印が立つ。


 エレノアは最後に、三年間飲み続けた薬代の欄を撫でた。


「私のせいではなかったのですね」


 問いではなく、確認だった。


「ええ」


 リツが答えたのは一度だけだった。


 表のベルが鳴った。


 営業札は裏返してある。ミナが窓の隙間から外を見ようとしたが、その前に扉が開く。


 戸口に立っていた女は、先日と同じ豪華なドレスを着ていた。裾は泥を吸い、真珠の耳飾りは片方しかない。息を整えるより先に、封蝋を裂いた手紙を作業台へ置いた。


「あの男の書斎から持ってきたわ」


 ヴィクトルの連れだった女は、エレノアではなくリツを見た。


「あなたの言い方は嫌い。今でも嫌いよ」


 紙を押さえる爪が欠け、血が滲んでいた。


「でも、確かめずにはいられなくなった。その結果がこれ」


「店からの帰り道、あの人に訊かれたの。パン屋の女から何を吹き込まれた、と。私が答えなかったら、その夜のうちに書斎の控えを炉へ入れ始めた」


 女は、焦げた手紙の端を示した。


「捨てられた束から、一通だけ抜いたわ。あなたがあそこで私を挑発しなければ、あの人はまだ書類を残していたかもしれない」


 リツは言い返さなかった。閉じた扉だけではない。証拠まで、自分の一言で燃やさせた。


 リツはすぐに手紙へ触れなかった。引き出しから、先日の銀貨を入れた小袋を出す。


「先日は、あなたを傷つけました。これはパン代のお返しです」


 女は小袋を一瞥しただけだった。


「今は、それより読んで」


 エレノアが椅子を一脚引いた。


 女はためらった末、空いた席へ腰を下ろす。三人分の場所が、同じ作業台の前にできた。

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