第29話 書かれていない権利
リツは契約書の第一条を開いた。
「『本契約において、甲から乙へ譲渡および共有される事業資産は以下の通りとする。一、店頭における販売権。二、毎月の利益の分配権。三、共同仕入れによる原材料。四、本契約締結後に共同資金で購入した備品』。以上です」
「ダミアン氏。あなたが今、自らの口で『譲り受けた』と宣誓した屋号、店舗、製法、既存の焼き型について、この契約書の条文のどこに明記されていますか?」
ダミアンの顔から、余裕の笑みがスッと消えた。
「それは、契約を結ぶ上で当然の前提として含まれているものだ! いちいちすべてを書き出さなくても、共同経営という形を取った以上、店全体が私の管理下に入ったという意味に決まっている!」
「いいえ。共同経営は、全財産の譲渡ではありません」
リツは契約書の余白を指した。
「書かれていない権利まで渡したことにはならない。さらに言えば――」
リツは次々と追加の証拠書類を裁定官に提出した。
「この焼き型職人の注文台帳、そして二十年前の祭りの出店記録。これらはすべて、あなたが主張する『屋号』『店舗』『製法』『焼き型』が、あなたとの契約が結ばれる十年以上前から、リーゼさんの家族が所有し、継続して使用してきた『固有の財産』であることを証明しています。これらは第一条の第四項にある『契約締結後に購入した備品』にも該当しません」
「横領した女の持ち物だぞ。そんな古い紙も焼き型も、後から揃えたに決まっている。そいつの出す証拠を信じるのか!」
リツは、祭りの出店簿を一番上へ置いた。
「これは商人組合の保管記録です。焼き型の注文台帳は職人組合から、店舗登記は公証役場から取り寄せました。リーゼさんの手元から出た物だけではありません」
「その女は横領を隠した!」
「はい。本人も私も、先に認めて訂正しました」
ダミアンが暴こうとしていた事実は、すでに返済計画とともに記録へ載っている。彼の手に残ったのは、契約にない権利を得たという宣誓だけだった。
「リーゼさんの信用が傷ついたことと、第三者の記録の日付が変わることは別です。契約前から彼女の家にあった財産を、どの条文で得たのですか」
ダミアンは契約書を睨んだ。答えにできる一行はなかった。
裁定官はすべての書類と証拠を慎重に見比べ、やがて重い木槌を鳴らした。
「双方の主張と証拠を精査した結果、以下の裁定を下す。申立人リーゼによる資金の横領は事実であり、被申立人ダミアンへの全額返済の義務を負う。ただし……」
裁定官はダミアンに向けて厳しい視線を送った。
「被申立人による、契約の範囲を超えた事業資産の差し押さえは違法である。よって、屋号、店舗、製法、ならびに契約前から存在する焼き型等の固有財産は、直ちにリーゼへと返還すること。また、被申立人ダミアンには、本査問会における虚偽の宣誓、および不当な財産占有に対する処罰を後日科すものとする」
ダミアンは椅子へ座り込み、リーゼは口元を押さえた。返済義務は残る。それでも、母の看板を掛け直せる。
リツは小さく息を吐き、机の上の書類を片付け始めた。
その日の夜。
粉挽き横丁の「ホノカ」の厨房で、リツは一人、いつものように明日のパンの仕込みを行っていた。
カラン、と扉が開き、セドリックが入ってきた。
彼はカウンターの前に立ち、粉まみれになって生地を捏ねるリツの姿をしばらく無言で見つめていた。
「依頼人の嘘を先に記録へ載せたことで、ダミアンは横領以外の武器を失いましたね」
セドリックの言葉に、リツは手を止めて微かに微笑んだ。
「ええ。嘘の土台の上では、本当の権利は守れませんから。それに……」
リツは少しだけ言葉を切り、厨房の壁に掛けられた木彫りの看板――『ホノカ』の屋号を見上げた。
「名前というものは、契約書の一行や、金貨の重さだけで簡単に他人に売り渡せるようなものではないと、そう信じたかっただけです」
セドリックもまた、その看板を見上げ、頷いた。
「そうですね。このホノカという名に刻まれたあなたの歴史と覚悟は、どんな悪辣な契約や金によっても、決して奪えるものではない。私は今日、そう確信しました」
リツは少しだけ顔を赤らめ、誤魔化すように再び生地を捏ね始めた。
一方、王都法院の奥深く、重厚な執務室。
王都法院長バルタザール・オルグレンは、先ほど届いた第三査問会の裁定記録を読んでいた。
「リツ、か」
バルタザールは、書類に記された代訴人の名を指先でなぞった。
「依頼人の横領も虚偽申告も自ら記録へ載せ、そのうえで契約の範囲だけを切り分けた。本来なら、当事者同士の穏当な話し合いで消すべき恥辱を、わざわざ公に残してまで争うとは。危険な代訴人だ」
多数の生活の維持を何よりも優先し、波風を立てずに和解で事を収めることを信条とするバルタザールにとって、リツの徹底した事実主義は、秩序を乱す異物でしかなかった。
彼は裁定記録を閉じ、表紙に記された代訴人の名へ指を置いた。
――同じ頃。
夜の粉挽き横丁、ホノカの裏口。
冷たい石畳の上に、ボロ布を纏った小柄な少年が倒れ込んでいた。
意識を失っている少年の細い手首には、衣服の擦り切れの隙間から、ミナと同じ『慈育院』の焼印が、痛々しく刻まれていた。




