第30話 読めない子どもの契約
ふかふかとした、甘くて香ばしい匂いがした。
ノアが重い瞼をこじ開けると、そこは冷たい石畳の裏路地ではなく、清潔で温かい空気の満ちた厨房の中だった。毛布が掛けられた長椅子の上に、自分が寝かされていることに気づく。
「気がつきましたか」
落ち着いた声がして視線を向けると、黒髪を後ろで束ねた女性が、小さな木の器を持って立っていた。
「ここは……」
「粉挽き横丁のパン屋『ホノカ』です。あなたは店の裏口で倒れていました」
ホノカ。その名前を聞いて、ノアは朦朧とする頭の中で、自分がなぜここまで走ってきたのかをはっきりと思い出した。
十五歳になったノアは、慈育院から奉公に出されていた。慈育院長のモーリスは、「真面目に働けば、院での養育費の借金はすぐに返せる」と言った。ノアは、院に残してきた幼い弟妹三人のために、朝から晩まで泥まみれになって働き続けた。
だが、現実は残酷だった。
奉公先の主人が読み上げる毎月の計算書は、ノアを絶望させるものだった。ノアのわずかな給金から、日々の食費、衣服の修繕費、粗末な寝床の代金、そして慈育院が定めたという『教育費』が天引きされる。結果として、いくら働いても借金は減るどころか、毎月確実に増え続けていた。
そして昨日、慈育院から恐ろしい通知が届いた。
『長兄ノアの労働による負債返済が滞っているため、担保として弟妹三人を鉱山の労働力として移送する』と。
鉱山送りにされれば、小さな弟たちは生きていけない。絶望の中でノアは、平民の不当な契約をひっくり返してくれる代訴人がいるという噂を頼りに、王都の下町を死に物狂いで走ってきたのだった。
「あ、あんたが代訴人か!? 頼む、助けてくれ! 俺の弟たちが……」
ノアが毛布を跳ね除けて立ち上がろうとした瞬間、激しい眩暈が襲い、その場に崩れ落ちそうになった。
女性――リツは、ノアの体を支え、再び長椅子に座らせた。
「事情を聞くのは後です。まずは、これを胃に入れてください」
リツが差し出したのは、湯気を立てる熱いスープと、ふっくらと焼き上がった丸い白パンだった。
三日間まともな食事を取っていなかったノアの胃袋が、強烈な自己主張を始めた。ノアは出されたパンをひったくるように手に取り、スープと一緒に一心不乱に貪り食った。温かい食べ物が食道を通るたび、冷え切っていた体に少しずつ熱が戻っていくのが分かった。
ふと、ノアは息をつき、手元に残ったパンの端切れを見つめた。
そして、店の奥で作業台に向かっている自分と同年代くらいの少女――ミナが、焼き上がったパンを籠に並べているのを目にした。
ミナが並べているパンの表面には、すべて『麦の穂』の形をした焼き印が押されていた。しかし、ノアが今食べているパンの表面はツルツルとしていて、何の印もない。
「なあ。なんで俺のパンには、あの印がないんだ?」
ノアの問いに、リツは作業の手を止めて振り返った。
リツの瞳には、哀れみでも冷酷さでもない、何かをこらえるような深い躊躇いの色が浮かんでいた。
「あの麦の穂の焼き印は、私が代訴人として、あるいはパン屋として、『お客さま』にだけお渡しする印です」
「客って……俺が金を払えない浮浪者だから、客扱いしないってことかよ」
ノアの声に刺々しいものが混じる。無理もない。散々大人から搾取され、見下されてきたノアにとって、それは貧しさゆえの差別だと受け取れた。
「お金の問題ではありません」
リツは首を横に振り、真っ直ぐにノアの目を見た。
「お客さまとは、この店でパンを買うことも、あるいは買わずに店を出ることも、自分の意思で自由に選べる人のことです」
「どういう意味だよ」
「今のあなたには、私の提案や助けを断っても明日を安全に生きられるという『選択の自由』がありません。明日住む場所も、家族の安全も人質に取られ、何かにすがるしかない状態です。そのような、断る自由すら奪われている方を、私は安易に客とは呼べないのです」
その言葉は、リツの代訴人としての厳格な倫理だったが、必死で駆け込んできたノアにとっては、冷たい突き放しのように聞こえた。
「ふざけるな!」
ノアは立ち上がり、怒りで声を震わせた。
「選べないって決めつけるな! 俺は弟たちを助けるためにここに来たんだ! あんたが代訴人なら、理屈をこねる前に助けてくれよ! 俺には選ぶ権利すらないって言うのかよ!」
大人は誰も自分を人間として見てくれない。慈育院の院長も、奉公先の主人も、そして目の前の代訴人も。自分がただの無力な子どもだから、まともに取り合ってくれないのだと、ノアは拳を固く握り締めた。
リツはノアの怒りを黙って受け止め、伏し目がちに目を逸らした。
「ねえ、文字、読めないでしょ」
不意に、横からミナが静かな声で問いかけた。
ノアは肩で息をしながら、ミナを睨みつけた。
「読めないよ。それがどうした!」
「私も、少し前まで自分の名前すら書けなかった。あの院の大人たちは、私たちが文字を読めないことをいいことに、嘘ばっかり教えるから」
ミナはそう言うと、着ている服の袖を捲り上げた。
彼女の細い手首には、ノアの手首にあるのと同じ、小さな『慈育院』の焼印が刻まれていた。
「お前……」
「私も、そこから逃げてきたの」
ミナの告白に、ノアは息を呑んだ。同じ地獄を知っている瞳が、そこにはあった。
「ノア。あなたが奉公に出る時、大人は『契約内容』を一度でもちゃんと読んでくれた? 紙に何が書いてあるか、教えてくれた?」
「そんなの、ない。院長が、働けば借金は返せると言っただけだ」
ノアの怒りが、徐々に戸惑いへと変わっていく。
リツはノアが握りしめていた、しわくちゃの通知書を受け取った。
「ノアさん。あなたはこの紙の内容を、奉公先の方から口頭で聞かされただけですね。自分で内容を確認したわけではない」
「ああ……弟たちが、鉱山に送られるって」
リツは通知書の文面を真剣な目で追い、やがてその表情を険しく硬直させた。
「ノアさん。この紙の末尾に、弟妹さんたちを慈育院から鉱山へ移送する、正確な予定日が書かれています」
「いつなんだ……! まだ、間に合うのか!?」
ノアがすがるように身を乗り出すと、リツは通知書から顔を上げ、残酷な事実をノアに告げた。
「一週間後です。彼らが移送されるまで……もう、一週間しかありません」




