第26話 焼き型に残った名前
大通りの管理組合で得た二十年前の出店記録。そこには確かに、リーゼの母親が使っていた『焼き菓子とパンの店――花麦亭』という屋号の記録があった。
だが、ダミアンの商会が主張する強引な拡大解釈を完全に崩すには、書類の記録だけでは弱い。契約のずっと前から、その屋号が彼らの店と不可分な形で実体として使われてきたという、物理的な証拠が必要だった。
「リーゼさん、お母様が使っていた焼き菓子の『型』は、今もお店に残っていますか?」
ホノカに戻ったリツが尋ねると、リーゼは少し考えてから頷いた。
「はい。母が昔から大切に使っていた銅製の焼き型が、厨房の棚の奥にしまってあるはずです。ダミアンは古いからと言って見向きもしませんでしたが……」
「それをすぐに取りに行ってください。おそらく、それがダミアンの嘘を崩す決定打になります」
数刻後。
リーゼが埃を被った古い木箱を抱えて戻ってきた。中には、使い込まれて黒ずんだ銅製の焼き型がいくつも収められている。
リツはそのうちの一つを手に取り、裏側を念入りに調べた。そして、王都の職人街にある小さな金工工房へと向かった。
炉の熱気が立ち込める工房で、頑固そうな老職人がリツから渡された焼き型を受け取り、虫眼鏡を目に当てて裏の刻印を睨みつけた。
「ああ、間違いねえ。これは俺の親父が打った型だ。ここに、親父の工房の印と、製造年の刻印が小さく彫ってある」
職人が指さした先には、肉眼では見落としてしまいそうなほど小さな数字と紋章が刻まれていた。
「この型の持ち主の名前も、台帳に残っていますか?」
リツが尋ねると、職人は奥から革張りの古い分厚い台帳を引っ張り出してきた。
「ええと、この製造年と……型の形状番号は『七十二番』か。どれどれ……」
職人がパラパラとページをめくる横で、一緒についてきていたミナが背伸びをして台帳を覗き込んだ。彼女は最近、数字の読み方を覚えたばかりで、目につく数字を何でも読もうとする癖がついていた。
「あっ」
不意に、ミナが小さな声を上げた。
彼女の指が、台帳のある一行を指し示している。
「リツ、これ……七十二番だ。でも、こっちにも七十二番があるよ?」
「え?」
リツと職人がミナの指先を見ると、彼女は『七十二番』という型の注文記録が、数ページにわたって複数回、数年おきに書き込まれているのを見つけていた。
「本当だ。同じ客が、同じ型の形状で、何度も追加注文をしている記録だ」
職人が感心したように声を上げた。
「ええと、注文者の名前は……『花麦亭・店主マリア』。製造年は……一番古いもので、今から十五年前だ」
十五年前。それは、ダミアンとの共同経営契約が結ばれるよりも十年以上も前のことだ。
さらに、リツはリーゼが持参していた古い包装紙や市場の荷札も確かめた。どれにも『花麦亭』の屋号と、七十二番の焼き型と同じ花柄が印刷されていた。
「これで証明できます。屋号も、製法も、それらを象徴するこの焼き型も、すべてはダミアンとの契約よりずっと前から、リーゼさんのご家族が継続して所有し、使用してきた固有の財産です」
ダミアンが出資した『共同経営の資金』によって作られたものではない。だから、彼にはそれを奪う権利など最初からないのだ。
リツはミナの肩に手を置き、しゃがみ込んで彼女と目線を合わせた。
「ミナ、よく見つけましたね。あなたの見つけた数字が、リーゼさんの店を守るための大きな証拠になりました」
ミナは自分の手柄だと誇るわけでもなく、ただ不思議そうに首を傾げた。
「ただ、同じ形を探しただけだよ」
「それでもです」
リツは言葉を一つずつ区切った。
「読めたから、見つけられた。文字も数字も、人を縛るためだけにあるものではありません」
ミナは台帳に並ぶ数字をもう一度見つめ、自分の指で七十二番をなぞった。
ホノカに戻ったリツは、集まった証拠を机の上に並べ、査問会での尋問の組み立てに入った。
予約分のパンを受け取りに来た御者が、『取り置きと配達の受領帳』へ署名していく。ホノカでは、誰が受け取ったかを客自身の筆跡で残すのが決まりだった。
「あとは、ダミアンが横領を理由にすべての財産を差し押さえるという主張をどう崩すかですね」
そこへ法院の使者が、ダミアン側の正式な反論書と、登録済み契約一式の写しを届けた。
リツは綴りを開き、本紙の末尾で手を止める。そこには、リーゼから受け取った契約書にはなかった『別紙・特約事項』が、公証印つきで縫い込まれていた。
「これは」
リツがリーゼを見る。リーゼは別紙を見ただけで、唇から色を失った。
「知っていたのですね」
答えはなかった。それが答えだった。
別紙には、リーゼの横領を待っていたかのような一文が記されていた。




