第25話 夫婦に見えた二人
ダミアンの反論書は、横領を理由に屋号も製法も差し押さえると主張していた。
崩すべき箇所は一つだった。リーゼの母が、共同経営より前から同じ屋号で商っていた公の記録である。
翌日、リツとセドリックは、王都の古い商業区にある市場の組合事務所を訪ねていた。
薄暗い事務所の奥で、帳簿の埃を払っていた白髪の老商人が、二人の姿を見るなり人懐っこい笑みを浮かべた。
「おや、若いご夫婦で商いのご相談かな? うちの市場に店を出したいなら、まずは組合への登録が必要だがね」
悪気のない、ごく自然な誤認だった。
「いえ、違います。私たちは夫婦ではありませんし、私は代訴人で――」
リツは即座に、少し早口になって否定した。
だが、隣に立つセドリックは表情一つ変えず、リツの言葉を遮るように老商人に話しかけた。
「失礼します。実は、二十年ほど前のこの市場周辺での出店記録を探しているのですが、当時の資料は残っていませんか?」
老商人は少しだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに記憶を探り始めた。
「二十年前ねえ……。常設の店ならともかく、あの頃の帳簿は火事で半分くらい焼けちまったからなあ。ああ、でも、秋の収穫祭の時の露店の記録なら、大通りの管理組合の方に残ってるかもしれんよ。あそこは昔から、屋号の登録だけはうるさかったからね」
「有益な情報に感謝します」
セドリックは礼儀正しく頭を下げ、リツを促して事務所を後にした。
市場の喧騒を抜け、大通りへと向かう帰路。
リツは少し前を歩くセドリックの広い背中を見つめながら、先ほどの誤認を否定しなかった彼に対して、どうにも居心地の悪さを感じていた。
なぜ、訂正しなかったのだろうか。ただの調査の効率を優先した実務的な判断だとは頭では理解できている。しかし、並んで歩いているだけで『夫婦』に見られたという事実が、妙に心に引っ掛かっていた。
「代訴人」
不意にセドリックが足を止め、振り返った。
「実は、父である侯爵から、私に縁談の話が持ち込まれましてね」
「えっ……」
唐突な話題に、リツの心臓が小さく跳ねた。
「相手は、とある伯爵家の令嬢です。家同士の繋がりを強固にするための、よくある政略的な話ですが」
セドリックは書類から目を上げなかった。リツは帳簿の日付へ視線を戻した。
「そう、ですか。それは、侯爵家の次男というお立場なら、当然のお話ですね。素晴らしいご縁ではないですか」
声が少しだけ上擦った気がしたが、リツは気づかないふりをした。
彼とは住む世界が違う。自分はただの下町のパン屋兼、問題ばかり起こす代訴人だ。彼がふさわしい相手と結ばれるのは当然のことだ。そう自分に言い聞かせるが、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。
「それで、記録の確認ですね。ええと、二十年前の秋の月……」
リツは動揺を隠すように、手元のメモに視線を落とし、先ほど老商人から聞いた情報を整理しようとした。
「あの老商人が言っていたのは、第十五鐘の年の記録でしたね。ですから、この年の……」
「代訴人」
セドリックの静かな声が、リツの言葉を遮った。
「彼が言っていたのは、第十五鐘ではなく、第十四鐘の年の記録です。一つ、年を読み違えていますよ」
「あ……」
リツは自分の書いたメモと、先ほどの記憶を照らし合わせ、確かに自分が一年読み違えていたことに気づいた。
普段ならしない、一年の読み違いだった。
セドリックは、リツの動揺をからかうことも、深く追及することもしなかった。ただ、いつもと同じ静かな声で、事実だけを訂正した。
「すみません。少し、疲れが溜まっているようです」
リツは誤魔化すように目を伏せ、ペンでメモの数字を書き直した。
彼が縁談の話をした直後の、己の情けない動揺。それを彼がどう受け取ったのか、リツには顔を上げて確認する勇気すらなかった。
大通りの管理組合に到着した二人は、古い埃まみれの保管庫で、二十年前の秋の収穫祭の記録を探し始めた。
膨大な羊皮紙の束をめくる作業は困難を極めたが、やがてリツの指先が、ある一ページで止まった。
「ありました。これです」
二十年前の出店許可の記録。
そこには、小さな露店を出した者たちの名前と、彼らが掲げた屋号が細かく記されていた。
そして、その中の一つ。
『焼き菓子とパンの店――花麦亭』。
リーゼの母親が、共同経営契約より前から同じ屋号で商っていた記録だった。




