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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第22話 提出した後で知った嘘

夜半を過ぎても、ホノカの厨房には灯りが残っていた。


 暫定保全の決定通知、リーゼが持ち込んだ抄本、命令によってダミアン側から提出された帳簿原本。リツは三つを並べ、原本を最初から一枚ずつめくった。


 帳簿の余白に、小さな覚え書きがある。


 右へ傾く文字。語尾で丸く跳ねる線。


 昼間、申立書へ書かせたリーゼの署名と同じ癖だった。


 リツは二枚を並べた。提出を急いだ行為そのものが、提出した内容の誤りを暴いている。


「リーゼさん。起きてください」


 店の隅で外套にくるまっていたリーゼが身を起こした。目に入った二枚を見て、寝ぼけた顔から色が引く。


「帳簿を管理していたのは、ダミアンだと話しましたね」


「はい。私は数字が苦手で」


「では、なぜ同じ字があるのですか」


 リツは責める声を出さなかった。自筆署名がなければ、帳簿の筆跡へ気づけなかった。急いで打った楔が、依頼人の嘘まで公の記録へ引きずり出したのだ。


 リーゼは弁解しようと口を開き、閉じた。


 リツは帳簿を最初へ戻した。売上と仕入れは一見正常だが、毎月決まった日に、仕入れにも維持費にも当たらない金が引き出されている。


「この記入も、あなたですね」


「母の薬代です」


 答えは小さかった。


「共同資金だと分かっていて?」


「分かっていました」


「ダミアンの同意は」


 リーゼの目から涙が落ちた。


「ありません。少しだけなら、売上が増えた時に返せると思ったんです。母の熱が下がらなくて、薬師は次の薬代がなければ診ないと言って……」


「いつからですか」


「共同経営を始めて二月目から」


「合計額は」


 その質問にはすぐ答えられなかった。リツが各月の数字を足して紙へ書く。リーゼは出た額を見て、両手で顔を覆った。


 一度の出来心ではない。返すつもりだったという言葉で消せる額でもなかった。


「ダミアンは知っていますか」


「三月前に。帳簿を見せられて、婚約を破棄されたくなければ新しい条件へ署名しろと」


 契約を結んだ経緯まで、依頼時の話と違う。


 ダミアンは横領を査問会で必ず出す。虚偽の申告を黙って維持すれば、リーゼだけでなく、その申告で保全を求めた代訴人の信用も失う。かといって保全を全部外せば、屋号と店舗は処分される。


 リツが読めなかった書類ではない。リーゼが「これで全部だ」と言って隠した書類だった。それでも、依頼人の言葉を根拠に公の力を動かした責任は、自分にもある。


「ごめんなさい」


 リーゼが床へ降り、膝をついた。


「嘘をつくつもりはなかったなんて言いません。何も知らない被害者なら、全部返してもらえると思ったんです。母のためだったと言えば、自分まで許される気がして」


 リツは手を貸さなかった。今立たせても、罪を軽くすることにはならない。


「申立ては取り下げてください。店も屋号も諦めます。代訴人まで巻き込むわけには――」


「取り下げて、嘘をなかったことにしますか」


 リーゼが顔を上げた。


「横領は消えません。あなたが奪われた店も戻らない。残るのは、ダミアンに都合のよい結末だけです」


 リツは決定通知を裏返した。白い面へ、必要な訂正を書き出していく。


 横領の事実。金額。返済義務。帳簿原本が保全命令後に提出され、初回申告と食い違った経緯。


「あなたが隠したことは、あなたの責任です。不完全な申告であっても、公の力を先に動かすと決めたことは、私の責任です」


 外向きの謝罪はしなかった。まず公の書面を直さなければ、言葉だけが先に清くなる。


「嘘のまま保全は維持できません。けれど、横領と無関係な権利まで渡す必要もない」


 リツは、共同経営契約の資産欄を指した。


「明日の朝、お母様にも事実を話してください。その後で、どこまで責任を負い、何を守りたいのか、ご自分で決めてください」


 リーゼは涙を拭わず、帳簿を抱えた。


「逃げずに、戻ってきます」


「その時に、依頼を続ける条件を話します」


 窯の火が落ちた厨房で、二枚の筆跡だけがランプに照らされていた。

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