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その婚約破棄、無効です ~前世弁護士のパン屋店主、契約書で理不尽を詰ませます~  作者: 他力本願寺


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第21話 ホノカの名はいくらだ

ダミアンは看板からリーゼへ視線を戻した。


「リーゼ。逃げ隠れしたところで、君が私と結んだ共同経営の契約が消えるわけではない。君の小さな店も、焼き菓子の製法も、君が大事にしていた屋号も、すべては契約書に従って私の商会のものになるのだからな」


 リーゼは青ざめ、震える両手で自分の肩を抱いた。


 ダミアンは怯える元婚約者から興味を失ったように視線を外し、今度は無言で立ち尽くすリツへと向き直った。


「耳触りのいい名だ。私の商会が新しく展開する菓子店の看板にちょうどいい。この店の屋号と製法、ついでに古びた店舗ごと買い取ってやろう。いくらだ? 金貨ならいくらでも積むぞ」


「名前を、買う」


 リツの口から、掠れた声がこぼれ落ちた。


 目の前の店が、一瞬だけ前世の会議室へ変わった。


 分厚い契約書。並べられた札束。


『会社の名前ごと、買い取らせていただきますよ』


 笑うスーツの男たち。奪われた商標の前で、穂乃が俯いている。


 息が詰まり、カウンターを掴む手に力が入らない。


 ダミアンは沈黙を承諾と取り、革袋から金貨を出した。


「ほら、前金だ。これで荷物をまとめて出ていけ」


 だが、その金貨が木板の上で跳ねた瞬間だった。


「触るなっ!」


 店の奥から弾かれたように飛び出してきたミナが、カウンターの上の金貨を両手で掻き集め、ダミアンの胸元へ力任せに突き返した。


 突然の孤児の反撃に、ダミアンは金貨を床にぶちまけながら数歩よろめいた。


「なっ、この薄汚いガキが……!」


「帰れ! ここはリツの店だ! お前の汚いお金なんかで、ホノカの名前は買えない!」


 ミナの怒りに満ちた叫び声が、リツの意識を暗い過去の底から一気に引き戻した。


 リツは小さく息を吸い込み、ミナの肩を抱いてダミアンの前へ出た。


「お引き取りください。この『ホノカ』の屋号も、パン一つ、粉の一握りすら、あなたには渡しません。他人の歴史を金で買えると思わないで」


 ダミアンは床に散らばった金貨を拾わず、リツを見た。


「平民の分際で、商会の主である私に盾突く気か! いいだろう、金で買えないというなら、法廷で店ごと奪い取ってやる。あの女のすべては私のものだとな!」


 ダミアンは扉を開け、拾え、と外の従者へ命じた。


 静寂が戻るなり、リツは羊皮紙を引き寄せた。あの男は本気で屋号を登記する。一度公の記録へ載れば、剥がすには時間がかかる。


「リーゼさん、今すぐ暫定保全の申立書を作ります」


「対象は屋号の登録変更と、契約前からある店舗・焼き型の処分だけ。五日間の仮留めです。その間に相手へ契約原本、別紙、帳簿原本の提出を命じてもらいます。所有権を決める申立てではありません」


 リツのペンが申立書の文案を書き連ねていく。ダミアンが来店し、屋号を自分の商会へ移す意思を口にした。今ここで必要なのは勝敗ではなく、記録を集める間に対象を消されないための細い楔だった。


「ここに、あなたの自筆で署名をお願いします」


 リツに促され、リーゼは震える手でペンを受け取った。


 彼女の顔はひどく蒼白だった。ペンを握る指先が強張り、紙の上にインクの染みを作る。


 不自然なほどゆっくりとした動作で、リーゼは自分の名前を書き始めた。右に少し傾いた独特の筆跡。語尾の文字が特徴的に丸く跳ね上がる、彼女自身の確かな署名だった。


「書けました」


「確かに。提出します」


 リツは署名のインクへ砂を振り、乾いたことを確かめてから申立書を綴じた。


 王都法院の受付窓口で暫定保全の手続きを終えたリツの背後から、静かな声がかけられた。


「踏み込むのが早いですね、代訴人」


 振り返ると、王立監察院の査察官であるセドリックが、腕を組んで厳しい視線を向けていた。


「相手の主張も資金の全容も、まだ見えていません」


「だから五日だけです。屋号を移された後に帳簿を揃えても、客の記憶までは元へ戻せない」


「保全の必要性はあります。ただし、相手から出る原本で前提が変われば、あなたは自分で範囲を狭めなければならない」


「承知しています」


 暫定保全は認められた。屋号と既存資産の処分を五日間だけ止め、ダミアン側へ契約原本、登録された付属書類のすべて、日ごとの帳簿原本を提出させる命令が同時に出た。


 その日の深夜、法院の使者が提出資料の第一便として、封印された帳簿原本をホノカへ届けた。


 リツが一頁目の余白を見たところで、指が止まった。

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