第20話 奪われた店と屋号
ホノカの戸口で、リーゼは足を止めた。
焼けた麦と酵母の匂いがする。昨日までなら、自分の店にもあった匂いだ。
「代訴人の方は、いらっしゃいますか」
カウンターの女が布巾を置いた。
「私です。まず座ってください」
湯気の立つ茶が置かれる。リーゼは椅子へ腰を下ろす前に、革鞄から契約書と数枚の帳簿抄本を出した。
茶には乾燥させた林檎の皮が浮いていた。母も、売り物にならない小さな林檎を同じように使っていた。リーゼは器を持ったまま、口をつけられない。
「母から継いだ『花麦亭』を、婚約者に取られました。店だけではありません。屋号も、製法も、焼き型も」
リツの手が、契約書の上で止まった。
「順番に聞きます。いつ契約を」
「半年前です。ダミアンが資金を入れ、私と共同経営する契約でした。昨日、婚約を破棄されて、そのまま店から追い出されました」
「譲渡する財産の一覧は」
「そこに。けれど彼は、共同経営なら店のすべてが自分のものだと」
「契約の別紙と、日ごとの帳簿原本は」
リーゼの視線が帳簿抄本へ落ちた。返事まで、一拍あった。
「別紙はありません。帳簿はダミアンが管理しています。手元にあるのは、それで全部です」
リツは第一条へ目を走らせた。販売権、利益分配、共同仕入れ。屋号と製法の文字はない。
「店舗の登記名義は」
「母から相続した私の名です」
「焼き型を作った職人は分かりますか」
「子どもの頃、母と工房へ受け取りに行きました。店の印を持ち手へ彫ってもらっています」
「製法を書いた紙は」
「家にあります。いえ、ありました。昨日、ダミアンの人間が戸棚ごと運び出しました」
リツは答えを一つずつ余白へ書く。リーゼの話だけでは、まだ何も証明できない。それでも、探す先は見えた。
「この文面だけなら、争えます」
壁際にいたセドリックが、机へ残された月計の抄本を見た。
「資金の流れは確認しましたか」
「帳簿はダミアンが管理していました」
リーゼの答えが早い。リツが抄本を一枚ずつ照合すると、彼女の指が椅子の縁へ食い込んだ。
月ごとの売上、仕入れ、利益分配。合計は合っている。だが日々の出入りが省かれた紙では、資金の全容までは追えない。
「すみません」
リツは布を取り、抄本を濡らさないよう脇へ避けた。
「花麦亭の名は、お母様の代から?」
「二十年以上です。私が生まれる前からありました。看板を外されるなんて、母がもう一度死ぬようで」
リツの視線が、ホノカの木彫り看板へ向いた。
セドリックが口を開きかける。
戸鈴が鳴った。
「見つけたぞ、リーゼ」
上等な服を着崩した青年が入ってきた。怯える元婚約者より先に、棚、窯、客席を値踏みする。
「ここが噂のパン屋か」
最後に木彫りの看板を見上げた。
「ホノカ。悪くない名だ」




