第19話 あなたから終わらせるのです
裁定官の木槌が、法廷に低い音を響かせた。
「ヴィクトル伯爵による離縁申立ては、虚偽の診断書に基づくものと認定する。三年間に及ぶ意図的な共同生活の拒絶は、第四原則に定める婚姻義務違反に当たる」
判決は、夫からの離縁を退けるだけでは終わらなかった。
エレノアから求めた婚姻解消を認め、持参金の全額返還、三年分の生活補償、虚偽診断による損害、名誉回復の公示をヴィクトルへ命じる。
医師には診断資格の停止と別途の査問。元侍女については、家族への圧力が認められたため偽証処分を猶予し、伯爵家から離れるための保護がついた。
ヴィクトルは何か言おうとしたが、裁定官が木槌をもう一度鳴らした。
「家を守る必要は、他者へ虚偽を強いる理由にはならない」
それで終わった。
書記から婚姻解消の確認書が渡される。
夫から出された離縁通知ではない。申立人の欄にはエレノアの名があり、解消理由には夫側の欺罔と義務違反が記されている。
エレノアは全文を読み、持参金の返還期日まで確かめた。
「これなら、私が終わらせたことになりますね」
「最初から、そのための申立てです」
リツがペンを渡す。
「あなたは離縁されるのではありません。あなたから、この婚姻を終わらせるのです」
エレノアは自分の名を書いた。筆先は一度も止まらなかった。
ヴィクトルの方を見ないまま席を立ち、元侍女へ近づく。二人が交わした言葉は傍聴席まで届かなかったが、侍女が泣きながら何度も頷くのは見えた。
法院の外では、冬の陽が石段を白く照らしていた。
エレノアは、アニエスが暮らす女性寄宿舎で財産管理を手伝うつもりだと話した。三年間つけ続けた出納帳が、今度は誰かの暮らしを守るために使える。
「子どもを持つか、再婚するか。前なら、すぐ決めなければ価値がなくなると思っていました」
「今は?」
「決めていません」
エレノアは笑った。
「決めていないことを、初めて怖いと思わずに済みます」
数日後、ホノカへ判決書の正式な写しが届いた。
リツが記録受理欄を確かめると、アニエスの判決書と同じ管理署名がある。
王都法院長バルタザール・オルグレン。
「二件とも、記録行政の管理者は法院長ですね」
パンを買いに来たセドリックが背後から言った。
王都の民事記録を統括する立場なら、署名自体は不自然ではない。リツは二枚を重ね、保管箱へ入れた。今あるのは二つの同じ名だけだ。
夜、最後の客が帰った後。
リツは戸口へ向かうセドリックを呼び止めた。
「少し待ってください」
厨房から紙包みと、借りたままの革手袋を持って戻る。包みの中は、彼がいつも買うライ麦パンだった。
「手袋と、火傷の手当てのお礼です。今日は代金をいただきません」
セドリックは手袋を受け取り、次にパンを見た。
「店の規則に反しませんか」
「返礼は売り物ではありません」
「では、ありがたく」
彼はパンを受け取ったが、視線は包みよりリツの右手へ落ちた。布の下にあった火傷は薄い赤みに変わっている。
「もう痛みませんか」
「窯仕事を休むほどでは」
「そうではなく」
続きを言わず、セドリックは手袋をはめた。指先まで収まると、パンの包みを外套の内側へ入れる。
「明日の朝に食べます」
「固くなりますよ」
「あなたの店は、朝が一番うまいのでしょう」
返す言葉を探している間に、彼は戸を開けていた。
リツが鍵を掛けようとすると、入れ違いに若い娘が駆け込んできた。
質素な服は乱れ、片手には折り目だらけの契約書がある。
「お願いです。私の店と、屋号を取り戻してください!」
娘は紙をカウンターへ置いた。インクで書かれた店の名だけを、失くさないよう指で押さえていた。




