第18話 触れられなかった三年
元侍女が見たのは、閉じた扉と、その前に立つ主人だった。
そこまで確認すると、リツは証言台から離れた。元侍女は肩を縮め、次の追及を待っている。
「裁定官。証人への質問は以上です」
ヴィクトルの眉がわずかに上がった。彼には、妻側が有力な証人を崩しきれず退いたように見えたのだろう。
リツは証拠台へ戻り、革表紙の帳簿を開いた。
「伯爵は先ほど、寝室の鍵を一度も管理していないと証言されましたね」
「そのとおりだ。妻の部屋へ無理に入るような真似はしていない」
「三年間、一度も?」
「一度もない」
二度目の断言が記録される。
リツは帳簿を裁定官へ差し出した。伯爵邸の鍵の受渡帳。婚礼の翌朝、夫婦寝室の鍵をヴィクトル本人へ渡したとある。受領欄の署名は、たった今提出された宣誓書と同じ筆跡だった。
返却欄は、三年間空白のまま。
「古い屋敷には合鍵くらいある」
「ございません」
証人席で答えたのは、伯爵邸の家政婦長だった。
彼女は鍵束を入れる木箱と封印簿を持参している。夫婦寝室の錠は一本の鍵で内外から操作する型で、室内側だけの閂はない。紛失時の予備鍵は封印箱に収められ、婚礼以降、一度も開かれていなかった。
裁定官が錠前職人の検査証を確かめる。
ヴィクトルは鍵を持っていた。エレノアが内側から施錠したという元侍女の言葉は、誰かに教えられた推測でしかない。
元侍女の肩が震えた。
リツは彼女へ問いを戻さず、ヴィクトルへ向いた。
「鍵を持っていなかったという証言を訂正されますか」
「家令が私の名で受け取ったのだ」
「受領署名も家令が?」
「そういうこともある」
「先ほどは、鍵を管理したことは一度もないと宣誓されました」
ヴィクトルが初めて紙包みのない手を握った。書記のペンが、その動きを待たずに走る。
次に呼ばれた医師は、金の記章を胸につけたまま証言台へ立った。
診断書を作成したこと、エレノアを対面で診ていないことは認める。だが伯爵家の使者が症状書きを持参しただけで、ヴィクトル本人の指示ではないと言い張った。
「医学的に疑いようのない症状だった。私は家名を信用したのだ」
「症状書きは残っていますか」
「保管期限を過ぎた」
「診断書の控えは残っているのに?」
医師は記章へ触れた。
「書類ごとに扱いは違う」
「証明料は、どなたから受け取りましたか」
「通常の診療費とまとめて処理した。覚えていない」
リツはその答えも記録させてから、一冊の薄い会計簿を出した。
取調べの後、監察院が医師の診療所から保全したものだ。診断書の日付の三日前、通常の診療費とは別に、高額の証明料が入っている。
受取証の控えには、ヴィクトルの私用印。
医師の顔から、記章にふさわしい威厳が剥がれた。
「私は……使者が本物の印を持ってきたから」
「症状書きは廃棄したのに、受取証だけは残したのですね」
「会計簿は別だ。私は、依頼主が何に使うかまで――」
医師は口を閉じた。
それ以上言えば、依頼主を知っていたことになる。
リツはヴィクトルへ向き直る。
「伯爵は先ほど、診断書の作成を依頼したことも、代金を払ったこともないと断言されました」
「印を家人が盗用した」
「では、その家人の名を」
「調査してから答える」
リツは追わず、債権者宛ての手紙を証拠台へ置いた。
店へ来た女が、書斎の引き出し、鍵の入手場所、封蝋を破った経緯を証言する。彼女一人の話では終わらない。債権者側の受領簿にも、同じ内容の手紙を受け取った日付と、ヴィクトルの私用印が残っていた。
手紙の一節を、裁定官が読み上げる。
妻へ触れずに三年を待ち、医師の証明で病人として処理する。
医師は俯き、ヴィクトルはもう彼を見なかった。
薪の搬入簿と洗濯帳は、最後に出した。
真冬にも夫婦寝室へ薪は運ばれず、二人用の寝具も浴室布も使われていない。毎晩扉を訪ね、妻との生活を望んだというヴィクトルの言葉は、日々の仕事のどこにも痕跡を残していなかった。
一つ一つは、使用人が職務のためにつけた数字にすぎない。それが並ぶと、三年間閉ざされていた部屋の冷たさまで法廷へ運んできた。
「私は家を守ろうとしただけだ」
ヴィクトルは声を荒らげなかった。
持参金がなければ家が潰れ、使用人が職を失い、領民まで困窮すると説く。店で妻を病人として扱った時と同じ、相手を諭す口調だった。
「妻一人が耐えれば、多くが助かる。家長として当然の判断だ」
その理屈を、エレノアは立って聞いた。
「でしたら、最初に私へ頼むべきでした」
ヴィクトルの顔が初めて動く。
「帳簿を見せて、一緒に返す方法を考えてほしいと。私にも、家のために何かを差し出すか決めさせるべきでした」
「お前に家政の判断ができるものか」
「だから病気にしたのですね」
エレノアの声は震えなかった。
「私が断ると思ったから、病気にした。選ばせれば逃げると思ったから、鍵を隠した。家のためという言葉で、私の三年を勝手に支払ったのです」
三年間、何度も訊きたかったはずの「なぜ」を、彼女はもう求めなかった。
裁定官へ向き直る。
「私は、捨てられた妻としてここにいるのではありません。妻にするつもりのなかった男との婚姻を、私の側から終わらせるために来ました」
傍聴席の誰かが息を吸った。
裁定官は鍵帳、会計簿、手紙、日常記録を順に閉じ、木槌へ手を伸ばした。




