第9話「妹の夜」
網膜に映っていたシステムUIが光の粒子となって霧散し、視界が暗転した。
ヘルメット型のフルダイブギア『Neuro-Gear Enterprise Pro』を頭部から外すと、現実の自室の冷えた空気が肌を叩いた。
カーテンの隙間から差し込む茜色の西日。
卓上時計は午後五時を示していた。
PANACEAに初ダイブを果たしてから、現実世界では六日が経過していた。
ギアをデスクの充電スタンドへ戻し、身支度を整えてアパートを出る。
途中で購入したゼリー飲料を喉へ流し込みながら、徒歩で15分ほどの場所にある大学病院へと向かった。
自動ドアを潜ると、消毒液と洗いたてのリネンの匂いが混じり合った独特の雰囲気が満ちている。
エレベーターで高層階の高度治療病床へ上がり、静まり返った廊下の突き当たりにある個室のドアを静かに叩いた。
「はい……」
弱々しい応答を確認し、ドアノブを静かに押し下げる。
薄暗い病室内には、心電図モニターの規則的な電子音だけが静かに響いていた。
ベッドの上では、点滴ラインを腕に繋がれた妹の美緒が、薄いシーツを胸元まで引き上げて横たわっていた。
「蒼真お兄ちゃん……」
「体調はどうだね。バイタルを見る限り、収縮期血圧は112 mmHg、脈拍は74で落ち着いているようだが」
私はパイプ椅子を引き寄せてベッド脇に腰を下ろし、壁際の電子カルテ画面へ視線を向けた。表示されている最新の採血データを確認する。
炎症マーカーの数値は一旦の低下を見せている。
しかし、主治医によって現在進められているステロイドの減量に伴い、炎症性サイトカインであるIL-6やTNF-αの推移曲線には、微小な不規則変動が散見された。免疫系のくすぶり
——反跳現象の前兆だ。
「うん……熱も下がってるし、今日は少し楽だよ」
美緒は擦れた声で言いながら、私の顔をじっと見つめた。
その眼差しには、自身の病状に対する不安よりも、目の前の兄を心配する色が強く滲んでいた。
「……お兄ちゃん、目の周り、少し暗くなってる。
ちゃんと寝てる?」
「必要な睡眠時間は確保している。
問題ない」
「嘘……。
大学の研究室、助成金が打ち切られたって、主治医の先生から聞いたよ。
私のせいで、お兄ちゃんの研究までダメになっちゃって……」
美緒の細い指先が、シーツの端をぎゅっと握りしめた。
「私ね、もちろん病気は治したいよ。
でも……
私のために、お兄ちゃんが自分の人生や研究を全部捨てちゃうのは、一番嫌なの。
お兄ちゃんには、ちゃんと大学で自分のやりたい研究を続けてほしい……」
自身の回復への願いよりも、身内の負担に対する罪悪感が優先されている状態。長期の闘病生活がもたらした心理的ストレスの典型的なパターンだ。
私は静かに息を吐き、ポケットから手帳を取り出した。
「誤解しないでほしいのだが、私は何も捨ててなどいない」
「え……?」
「既存の助成金が打ち切られたのは、単に評価基準が私の研究と噛み合わなかっただけだ。
九条蒼真という一人の薬理研究者として、私は現在、より大規模かつ高解像度な生体演算環境を用いて、君の病態に関する用量反応データの収集を進めている」
「生体演算環境……?」
「そうだ。君の体内で起きているサイトカインストームも、無秩序な暴走に見えて、その根底には必ず緻密な分子間の結合定数と受容体の反応閾値が存在する。
用量と時間のパラメータを正しく制御できれば、自己組織を攻撃することなく、過剰な免疫応答だけを静める解は必ず導き出せる」
私は手帳の余白に、昨夜PANACEA内で完成させた
『試作・静心散』の臨床データ
——胃粘膜での吸収調整と、中枢神経受容体への段階的な抑制に関する数式を静かに書き加えた。
「仮説は、仮想生体モデルにおいて実証されつつある。
私は自分の意思で、解くべき計算式に向き合っているだけだ。
だから、君が責任を感じる理由は一つもない」
美緒は少し驚いたように目を丸くし、それから力なく、けれど温かみのある苦笑を浮かべた。
「相変わらず……
理屈っぽいね、お兄ちゃんは」
「事実を述べているだけだ」
私は美緒の手首へそっと指先をあて、皮膚の温度と脈の打ち方を確認した。
微かな浮腫みはあるが、末梢の循環はまだ保たれている。
「……もうすぐ面会終了の時間だ。
今日は休みなさい」
「うん。
……来てくれてありがとう、お兄ちゃん」
美緒がゆっくりと瞼を閉じるのを見届け、私は静かに病室を後にした。
夜の病院の廊下を歩きながら、私は思考を静かに整理した。
美緒の病状は小康状態を保っているが、残された猶予は決して長くない。
既存の製薬アプローチが限界を迎えている以上、PANACEAの全分子シミュレーションエンジンを通じて、一刻も早く『劇薬を薬へ変える最適用量』の解を完成させなければならない。
「仮想空間での試行は正しかった。
次はより複雑な病態モデルと、多成分の相互作用の検証だ」
病院を出ると、夜の冷たい風が頬を刺した。
私は自宅へ戻り、再びPANACEAへダイブするため、歩みを速めた。




