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第8話「最初の処方」

 

 石段の民区を照らす街灯の火が、深夜の鋭い風に揺れていた。


 貸出調合室を後にした私は、薄暗い路地を奥へと進み、粗末な木造民家の前で足を止めた。

 羊皮紙に記載されていた住所と、玄関脇に掲げられた木札の番地を照合する。

 間違いなさそうだ。


 木製の扉を軽く叩くと、奥で重い足音が響き、ゆっくりとドアが開いた。


 扉の向こうに立っていたのは、削げ落ちた頬と目元に濃い黒ずみを刻んだ、人間種の中年男性だった。

 目は赤く血走り、肩を上下させる呼吸は浅く速い。


「緑十字商会から

 ……薬草採取人が来たのか? 

 頼む、本当に効く薬を持ってきてくれたんだろうな。

 最近は市販の安眠草をどれだけ煎じて飲んでも、胸のざわつきが収まらず、一向に眠れんのだ……」


 擦れ切れた声で訴えかける男性の全身を、私は頭から足元まで静かに観察した。


「目の下の色素沈着、白目の著しい血走り、不規則な頻脈と浅い呼吸。

 典型的な交感神経系の持続的過剰緊張状態だな。

 安眠草に含まれる軽微な中枢刺激成分すら、今の君の過敏になった受容体には逆効果を生んでいるわけだ」


「な、なんだって……? 

 小難しいことはいい、早く眠れる薬をくれ」


「慌てる必要はない。

 生体反応には必ず段階がある」


 私は試薬ポーチから和紙で包んだ

『試作・静心散』を取り出した。

 調合室で精製した五段階のサンプルの中から、男性の推定体格に加え、長期の不眠で自律神経が疲弊し、代謝も著しく低下している状態を考慮して、最も有効量の低い一包を指先で選び出す。


「コップ一杯の白湯さゆを用意してもらいたい。

 この粉末を溶かして飲んでもらう」


 男性は急いで台所から蒸気を立てる素焼きのカップを持ち出してきた。

 和紙を解き、暗紫色の微粉末を落とし込む。微粉末は湯に溶け込み、重く甘い揮発香と、心葉草由来の穏やかな草の香りが入り混じった湯気を立ち上らせた。


「これは……

 少し独特な匂いだな。

 本当に毒じゃないんだろうな?」


「正しく言えば、毒性を併せ持つ劇薬の抽出物だ。

 だが、君の体組成と代謝率から算出した現在の用量は、完全に治療域の範囲内に収まっている。

 一気に飲み干したまえ」


 男性は一瞬躊躇したものの、限界に達していた疲労に背を押されるように、カップを一気に傾けた。


 私は男性の正面にある木製椅子へ腰を下ろし、革手袋を外して指先で彼の手首の脈拍に触れ、呼吸のリズムを注意深く観察した。


 薬が胃内へ到達し、吸収が始まる頃だ。心葉草に含まれる粘液質が胃粘膜を優しく覆い、曼陀羅草のトロパン系アルカロイドの急激な吸収を抑えているはずだ。

 血中濃度の上昇は緩やかになり、急激なショックや血圧変動は発生しない。


 十五分が経過した。


 男性の浅く荒かった胸の上下が、徐々に大きな深呼吸へと変化していった。

 手首に触れた指先へ伝わる脈拍の角が取れ、不規則な跳ね上がりが収まっていく。


「なんだか……

 胸のざわつきが、すっと静まっていく……。

 体の中が、急に落ち着いたように静かになっていく感覚だ……」


 男性の瞼がゆっくりと重くなり、視線が定まらなくなった。交感神経の過剰な励起が急速に収まり、副交感神経優位の生理的な自律神経バランスへ戻りつつある証拠だ。


「う……あ……」


 男性は大きなあくびを一つ漏らすと、椅子にもたれたままゆっくりと意識が沈み、背後のベッドへ身を預けてそのまま規則正しい寝息を立て始めた。


「中枢神経の適度な鎮静、ならびに自律神経のトーン再調整プロトコル

 ——完了だな」


 私は手帳を開き、投与からの経過時間、脈拍の変化、呼吸数の推移を刻一刻と記録していった。

 中毒症状を示す発汗や瞳孔散大といった副作用の兆候は一切観察されない。


 ◆


 翌朝、窓から差し込む朝光が部屋を白く染める頃、男性はすっと目を覚まし、上体を起こした。


 その目からは昨夜の激しい充血が消え去り、肌の血色も目に見えて改善していた。


「な、なんということだ……! 

 途中で一度も目が覚めなかった! 

 朝起きて頭の重さが完全に消えているのは何年ぶりだ……!? 

 だるさも、頭痛も一切ない!」


 男性は自分の両手を凝視し、信じられないというように何度も握りしめた。


「あの安眠草のような気休めとはまるで違う……! 

 君、あの薬は何なんだ!?」


「仮説に基づき、劇薬の用量を君の生体反応に合わせて最適化しただけだ。

 副作用が出ないのは、過剰投与を徹底して避けたからに過ぎない」


「素晴らしい……

 本当に救われたよ! 

 これは決まっていた報酬だが、受け取ってくれ!」


『個別依頼②[不眠に効く薬を作ってほしい]を達成しました』

『報酬:200PANACEAクレジット(基本報酬100 + 満足度ボーナス100)を獲得しました』

『依頼主からの評判が上昇しました』


 視界に明るいシステムウィンドウが立ち上がり、予定の倍額となるクレジットが加算された。


 システムログへ視線を向けたその時、最下層の詳細ログの片隅で、再び微小なシステムテキストが明滅した。


 [解析ログ:対象NPCの自律神経パラメータの完全正常化を確認。

 投与薬剤の生体親和性:98.7%。副作用発現率:0.00%。

 異常に高精度な臨床用量最適化行動として内部学習ログID-8822へ追加記録します]


「ほう……

 投薬後の生体変化まで、エンジンは正確にトラッキングして評価しているわけか」


 感謝を繰り返す男性を背に、私は静かに民家を辞した。


 朝の石段を吹き抜ける風が、心地よく頬を撫でる。


「毒か薬かを決めるのは、成分そのものではない。

 ……用量と、生体反応への精密な介入だ」


 今回使用した一包を除き、ポケットに残された四包の

『静心散』

 の感触を確かめながら、私は次の仮説を検証するため、新たな観測対象を求めて石段を下り始めた。

[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]

[EVT_TRACE::SESSION_02_CLINICAL_TRIAL]

├─ PATIENT_SCAN :: AGENT_NPC_PATIENT_01 (RACE: HUMAN)

│ └─ VITAL: PULSE_118bpm / SYMPATHETIC_EXCESS_HYPERTONIA

├─ DOSAGE_EXEC :: [PROTOTYPE_SEISHINSAN] SAMPLE_LV1 (ORAL_SOLUTION)

├─ BIO_SIM_TRACE:: T+15min_POST_ADMIN

│ ├─ GASTRIC_PROTECT : SHINYOUNSOU_POLYSACCHARIDE_ACTIVE

│ ├─ SERUM_LEVEL : TROPANE_0.042ug/mL (SMOOTH_CURVE)

│ ├─ NEURO_SHIFT : PARASYMPATHETIC_DOMINANT (PULSE_68bpm)

│ └─ BRAIN_PHASE : DEEP_NREM_STAGE_ENTER

├─ VITAL_CHECK :: MORNING_WAKE :: BASELINE_RESTORED (NO_SIDE_EFFECTS)

├─ QUEST_CLEAR :: ID_Q_002 [INSOMNIA_SEDATIVE_REQ] -> SUCCESS

│ ├─ REWARD: +200_CREDIT (BASE:100 + SATISFACTION:100)

│ └─ TRUST_SCORE: HIGH

└─ SYSTEM_ARCH :: BIOPHILIC_MATCH=98.7% / ADVERSE_RATE=0.00%

└─ RECORD_UPDATE -> [INTERNAL_LEARNING_LOG_ID-8822]

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