第7話「LD50を知っているか」
夜の静寂が深まる廊下を通り、重い木製ドアの鍵穴に真鍮の鍵を差し込んでゆっくりと回す。
カチリという金属音とともに、視界の片隅で20クレジットが減算された。
緑十字商会の貸出調合室は、石段の民区の狂騒から完全に遮断された冷やりとした静寂に包まれていた。
室内には頑丈な石造りの作業台が備え付けられ、壁際には温調機能付きの小型加熱炉、ガラス製のフラスコや冷却管を組み合わせた蒸留器、真鍮の天秤、そして重厚な石製乳鉢が整然と並んでいた。
棚から漂う乾燥ハーブの匂いと、微かなアルコールの揮発臭が鼻腔を突く。
作業台の中央に小瓶を置き、木製の椅子へ腰を下ろした。
試薬ポーチから取り出した遮光ガラス小瓶の中で、月光の下で採取した曼陀羅草の葉と花弁が、暗紫色の光沢を静かに保っていた。
視界の端にシステムウィンドウが明滅し、未登録レシピへの注意喚起を示す黄色い警告アイコンが浮かび上がる。
『レシピ未登録の素材を検知しました。スキル[薬草調合]による自動調合を実行しますか?(成功率:35%)』
「……実に不親切で、同時に大雑把な補正機能だな」
私は表示された
「はい」
の選択肢を指先で払い除け、ウィンドウを消去した。
PANACEAにおいて、調合行動を行うには職業スキル
[薬草調合]
が必須となる。だが、それはシステムに対して
『生体分子の操作・抽出権限』
を要求するためのインターフェースに過ぎない。
スキルを起動した上で、システムによるオート一括補正を拒否すれば、プレイヤーの手動物理操作がそのまま分子演算へと反映される仕様なのだ。
「自動調合を選択すれば、システムが画一的な条件で素材を破砕し、温度変化や素材ごとの特性を十分考慮せず、一括処理するのだろう。
それでは有効成分のアルカロイドも、熱に弱い共存成分も無差別に変質し、不純物の多い不安定な生成物が出来上がるだけだ」
生体シミュレーションエンジンが全分子レベルでリアルタイム演算を行っている以上、システムが用意した簡易な自動補正は、かえって純度と用量精度を阻害するノイズにしかならない。
私は革手袋をはめ直し、
[薬草調合]
スキルを生体操作の権限としてアクティブ状態に保ったまま、作業台の石製乳鉢を引き寄せた。
「半数致死量
——LD50を知っているか?」
誰もいない調合室で、私は手元を見つめたまま静かに呟いた。
「投与された被験群の半数が死亡する用量。
世間の人間はこれを
『毒の強さ』
と呼び、恐怖して遠ざける。
だが、薬理学においてLD50とは、単なる危険域の上限を示す基準点に過ぎない」
ピンセットで曼陀羅草の葉を取り出し、温調炉の金属プレートの上に並べる。
温度を34度に設定し、加熱を極小に抑えながら微風で水分を均一に蒸発させていく。
クチクラ(キューティクル)層から余分な水分だけを除去し、高温によるアルカロイド構造の熱分解を防ぎつつ、組織内の過剰な水分だけを飛ばす下処理だ。
曼陀羅草の脱水を進めている間に、夕方から共用乾燥棚に預けておき、数時間かけて水気がきれいに抜けた『心葉草』を取り出して作業台へ運ぶ。
乾燥により組織の過剰な水分を抜いた後、熱に弱い粘液質とフラボノイド成分を壊さず効率よく温浸水で抽出し、その浸出液を微風で緩やかに蒸発・濃縮させて粉末を調製した。
「真に見るべきは、半数に効果が現れる有効量(ED50)と、致死量(LD50)の距離
——すなわち治療係数(安全域の幅)だ。
どんな劇薬であろうと、ED50とLD50の間に明確な幅が存在し、その治療域の範囲内に用量を収めれば、生体にとっては至高の薬効となる」
乾燥の完了した曼陀羅草の葉と花弁を乳鉢へ移し、石のすりこぎで叩くことなく、組織の繊維を一定方向に磨り潰すように滑らせていく。
シャリシャリという滑らかな摩擦音が静寂に響く。
緑を含んだ暗紫色の微粉末が、乳鉢の底に溜まり始めた。
「だが、単に用量を減らすだけでは足りない。
成分が体内のどれだけ広い範囲へ行き渡るかを示す
『見かけの分布容積(Vd)』、
体内の代謝酵素によって分解・排泄される
『代謝速度(半減期)』、
そして連用による組織内への
『蓄積性(累積性)』。
これら全ての変数をリアルタイムで計算しなければ、治療域を維持し続けることは不可能だ」
乳鉢の粉末へ、先ほど調製した心葉草の濃縮粉末を、真鍮のミクロスプーンで極微量だけ加える。
「さらに重要なのが成分同士の
『相互作用』だ。
心葉草に含まれる粘液質とフラボノイド成分は、曼陀羅草のアルカロイドが胃粘膜から急速に吸収されるのを緩和し、血中濃度の急激なスパイクを抑える吸収速度を緩める役割を果たす」
天秤の皿に薄い紙を敷き、分量を精密に計測していく。
患者への投与試行、ならびに段階的な用量反応曲線の構築に必要な五段階の比較サンプルとして、ミリグラム単位の誤差も許さない手つきで、粉末を小さな和紙へ包んでいった。
作業台の上に、整然と並んだ五つの紙包み。
最後の包みを折りたたんだ瞬間、視界の端で静かなシステム音が鳴り、透過ウィンドウが立ち上がった。
『未登録のプロセスによる手動調合を検知しました』
『調合アイテム[試作・静心散]×5 の作成に成功しました』
『獲得スキル経験値:[薬草調合]+45』
『新規の組み合わせ(未登録レシピ)を検出しました。本処方を緑十字商会へ公認登録しますか?[登録/保留]』
『※公認登録を行った場合、処方精度に応じた組合貢献度および報奨クレジットを獲得できます』
「公認登録、かね?」
提示されたダイアログを眺め、即座に
「保留」
の選択肢を視線で決定した。
「臨床における患者の生体反応データが未検証の段階で、レシピを公に登録するなど不誠実にも程がある。
検証も経ていない処方をデータベースへ流し込むような行為は、科学者として容容認できない」
ダイアログが消えると同時に、システムメッセージの最下層、普段は開かない詳細ログの片隅で、微小なシステムテキストが不規則に点滅した。
[警告:システム規定の標準レシピ補正を逸脱した成分比率を検出。
有効成分純度:99.2%/用量誤差:±0.04%以内。
該当データを内部学習ログID-8821へアーカイブします]
「ほう……
手動による物理操作であっても、成分比率と質量の精度はシステム側でミリ単位まで検知され、データ化されているわけか」
画面を指先で消去し、完成した
『試作・静心散』
の和紙包みをポケットへ収めた。
「仮称
『静心散』。
……次は、この仮説が患者の体内でどこまで通用するか
——生体反応そのものを観測するとしよう。
石段の民区の依頼主の家へ向かうとするか」
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
[EVT_TRACE::SESSION_02_MANUAL_CRAFT]
├─ FACILITY_RENT :: GREEN_CROSS_LAB_ROOM_03 :: COST_DEDUCT = 20_CREDIT
├─ UNREG_RECIPE :: [MANDARASOU_V01] + [SHINYOUNSOU_DRY]
│ ├─ AUTO_CRAFT_PROMPT: DISPLAYED (SYS_PROB: 35.0%)
│ └─ USER_SELECTION : BYPASS_AUTO_CORRECTION (MANUAL_PHYSICAL_ON)
├─ SKILL_INTERFACE:: ID_SKILL_PHARM_CRAFT -> ACTIVE_MANIPULATION_AUTHORITY
├─ PROCESS_DETAIL :: MANDARA_DESICCATION (34.0C) & SHINYOUNSOU_WARM_MACERATION
│ └─ FIBER_ALIGNED_PULVERIZE :: ADD_POLYSACCHARIDE_BUFFER
├─ WEIGHING_EXEC :: BRASS_SCALE_MEASURE :: MASS_ERROR < 0.001g (N=5_SAMPLES)
├─ ITEM_GENERATE :: [PROTOTYPE_SEISHINSAN] x5 (EXP_GRANT: [PHARM_CRAFT] +45)
├─ REG_PROMPT_RSP :: GREEN_CROSS_PUBLIC_REGISTRATION -> USER_ACTION = [HOLD]
│ └─ REASON_LOG: "UNVALIDATED_CLINICAL_DATASET"
└─ SYSTEM_ARCHIVE :: ACTIVE_PURITY = 99.2% / MARGIN_ERR = ±0.04%
└─ RECORD_UPDATE -> [INTERNAL_LEARNING_LOG_ID-8821]




