第6話「毒草しか見ていない男」
石造りの坂道を上るにつれ、太ももの筋肉に伝わる負荷が徐々に増していった。
渡来の岸から中腹へ伸びる急勾配の階段沿いには、幾重にも重なる石垣と、旧市街の古い民家がひしめき合っている。
標高が上がるにつれ、港の湿気を含んだ温風は遠ざかり、風の中に冷涼な山気と湿った土の匂いが混じり始めていた。
◆
[エリア移動:石段の民区]
勾配によるスタミナ消費率の上昇。PANACEAではレベルや筋力値が高くとも、急傾斜での正しい姿勢制御や呼吸法の回数によって上昇する不可視の専門ステータス
——『登坂適性』が高くなければ、高標高域への移動コストが加速度的に跳ね上がる仕様になっているのだ。
緑十字商会の支部を出る際、私は購買に立ち寄り、初期依頼の報酬である100クレジットの一部を費やして最小限の実験器具を買い揃えていた。
真鍮製の精密ピンセット、防護用の革手袋、そして遮光性を備えた小型の密閉ガラス小瓶だ。
同時に、先ほど採取した心葉草を共用乾燥棚へセットし、低温脱水処理を仕込んでおいた。
夜に予定している調合の時刻までに数時間かけ、組織内の過剰な水分だけを蒸発させる計算だ。
一般的なゲームであれば、採取した素材はインベントリという仮想ストレージに格納され、半永久的に初期状態が維持される。
しかし、全分子シミュレーションエンジンを積んだPANACEAの仕様は異なる。
採取された植物組織は、根や茎から切り離された瞬間から代謝を停止し、酵素分解や水分蒸散、空気による酸化がリアルタイムで進行するのだ。
「適切な密閉と温度・湿度の管理を行わなければ、時間の経過とともに有効成分のアルカロイドは分解し、品質ランクが暴落する。
インベントリに頼らず、専用の保存容器を揃えておくのは基礎的な前提条件というわけだ」
腰の試薬ポーチに収めた小瓶の感触を確かめ、視線を前方へ戻す。
頭上の日差しを遮るように段々畑状の石垣群が現れた。
石段の脇や日陰の隙間には、低地とは異なる多様な草花が群生している。
周囲では、寒暖差への耐性を備えた荒人や山人の薬草採取人たちが腰をかがめて作業を行っていた。
彼らが手に取っているのは、表面に柔らかな微毛を生やした明るい緑色の草
——擦り傷や体力の回復薬に使われる一般的な「傷癒草」だった。
「よし、傷癒草を20本確保!
これなら高く売れるぞ」
「やっぱり日当たりのいい南側の斜面が一番だな」
採取人たちの歓声を雑音として意識の外へ追いやり、私は日当たりの良い斜面には目もくれず、北側の湿った石垣の陰へ足を運んだ。
石垣の根元、日光がほとんど届かない暗がりに、縁に荒い切れ込み(鋸歯)のある大きな葉と、閉じられた薄紫の蕾を持った草が並んでいた。
葉の表面には僅かな光沢があり、近づくだけで重く甘い揮発性の匂いが鼻腔を突く。
「……ほう。中枢神経系の活動を一時的に抑制する微量アルカロイドを含有する群落か」
購買で買った革手袋をはめた指先で葉の表面を軽く押し、葉肉の張りを確かめる。
この草は経皮毒性も無視できないため、素手での接触は避ける。
他人が
「中毒を起こす危険な毒草」
として忌避する植物
——『曼陀羅草』だ。
「おい、あんた」
背後から声をかけられた。
振り返ると、採取用の大きな籠を背負った大柄な山人の男が、呆れたような顔で私を見下ろしていた。
「そんな日陰の毒草なんかいじくって、何やってんだ?
傷癒草の群生地なら、あっちの南側の階段沿いにあるぞ。
そんな毒草より傷癒草を採れよ」
「傷癒草で足りるとでも思っているのかね?」
私は立ち上がり、手袋の表面を拭いながら静かに問い返した。
「君たちは日当たりの良い場所で傷癒草ばかりを追い求めているようだが、傷癒草が与えるのは外傷に対する皮膚組織の創傷治癒であって、中枢神経の鎮静ではない。
中枢が過剰に励起している状態を抑えるには、神経伝達物質の受容体を適度に阻害する成分
——すなわち、君たちが毒と呼んでいる物質の用量制御が必要不可欠だ」
「はあ?
何言ってんだお前。
毒は毒だ。そんなもの触ってどうする」
男は蔑むように首を振り、南側の斜面へ去っていった。
「成分の生理作用を見ず、表層的な
『毒』
か
『薬』
かのラベルに依存している典型だな。実に非科学的だ」
私は再び膝をつき、曼陀羅草の観察を再開した。
だが、今すぐこの葉や蕾を摘み取ることはしない。
私は手帳を開き、土壌の湿潤度、周囲の気温、そして石垣が作る影の角度を詳細に記録し始めた。
根で生合成されたトロパン系アルカロイドが地上部へ蓄積し、開花に合わせて葉や蕾に濃縮される日周サイクルが存在する。
日中は水分量の増加により、有効成分濃度が相対的に低下し、共存成分も多い。
「昼間に摘んでも、無駄な水分と共存成分が多く、肝心の有効成分濃度は低い。最適な濃度を得るには、時間のパラメータを合わせる必要がある」
周囲の採取人たちが日没とともに収穫物を抱えて街へ戻っていく中、私は時折、水筒の水を微量だけ口に含みながら、石垣の陰に静かに腰を下ろし、土壌の温度変化を観察し続けた。
「あいつ、昼間は一向に草を摘まないで、ずっと土ばかり触ってるぞ」
「夜になっても居座る気か?
気味が悪い奴だな……」
遠くから投げかけられる嘲笑を背に受けながら、冷気が石段を包み込むのを待つ。
やがて、空が深い紺色に染まり、月光が石垣の表面を白く照らし始めた。
気温が低下し、石垣の表面に薄い夜露が宿る。
曼陀羅草の畳まれていた薄紫色の蕾が、夜気を受けて喇叭状の輪郭をゆっくりと開いた。
重い甘さを帯びた揮発性の香りが、昼間よりも明らかに濃厚になって漂い始める。
「……やはりな。
日周リズムにより、地上部組織へのアルカロイド蓄積と濃縮が最適域へ達した」
私はギルドで購入した精密ピンセットを取り出し、有効成分が最も集積すると推定した部位を、組織を潰さないよう精密に切り取った。
剪断した断面から立ち上る香気は、昼間の刺すような角が削ぎ落とされ、穏やかな印象へ変化していることが鼻腔を通じて伝わってきた。
「昼間に採ればただの毒草だが、夜間に正しく摘めば良質な鎮静素材となる。
……素材の基礎データは揃ったな」
採取した葉と花弁を、用意していた遮光密閉ガラス小瓶へ手際よく収め、しっかりと栓を閉める。
「次は、この素材を用いた調合薬
——『静心散』の用量反応曲線の構築だ。
有効量(ED50)と半数致死量(LD50)の比から治療係数を弾き出し、確実な治療域を特定する。
検証を始めよう」
私は冷えた夜気の残る石段を静かに下り、昼間案内されていた緑十字商会奥の貸出調合室へと向かった。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
[EVT_TRACE::SESSION_02_FIELDTIP]
├─ ZONE_TRANSITION:: MAP_MEBIUS_L0 -> MAP_MEBIUS_L1 [ISHIDAN_RESIDENTIAL]
│ └─ ELEVATION_COST: INCLINE_28deg (ASCENT_ADAPTATION_INC)
├─ FIELD_OBSERVE :: TARGET [MANDARASOU_V01] (DATURA_MODEL / TROPANE_ALKALOID)
│ ├─ LOCATION: NORTH_SHADE_WALL (HUMIDITY: 82%)
│ └─ TEST_ACTION: TACTILE_PRESSURE_TEST (SAFETY_GLOVE_ON)
├─ NPC_INT_LOG :: AGENT_NPC_HARVESTER (RACE: YAMABITO) <---> DOSE
│ └─ DIALOG_THEME: "LABEL_BIAS_VS_DOSE_CONTROL"
├─ DIURNAL_TRACE :: TIME_ELAPSED [12:00 -> 21:00] (TEMP_DELTA: -8.2C)
│ └─ SYNTHESIS_FLUX: ALKALOID_ACCUMULATION_PEAK
├─ HARVEST_EXEC :: MANDARASOU_NIGHT_FLOWER :: PRECISION_CUT (PINSET_BRASS)
│ └─ STORAGE: BOTTLE_SHADE_SEALED (RANK_A_POTENTIAL)
└─ FORMULA_CALC :: PRE_SCHED [SEISHINSAN] -> DEST: GREEN_CROSS_LAB_RENTAL




