第30話「運ぶ前の手順」
翌朝、午前十時にログインするなり、私は作業台に向かった。
遠征から戻った日の三人の診察と、その前までの診察で一つ気づいたことがある。
患者に向き合う時間の大半は、天秤の前で費やされていた。
体重と水分から匙の量を決め、秤にかけ小瓶に詰める。
この手順を一人ずつ繰り返しているから、一日に二十人が限度になる。
では、診る前に済ませられる部分はないか。
私は昨夜のうちに計算した表を、作業台に広げた。
体格を小・中・大の三段階、水分の保持傾向を少・普・多の三段階に分ける。
掛け合わせて、九通り。
それぞれに、土の数字から見積もった材料の濃さを織り込み最初の一包みの量を決めておく。
九種類の小包を、あらかじめ多めに作って並べておけば、患者を診る時間は、
「どの区分か見極めて、最初の量を渡し、反応を見て補正する」という作業に絞られる。
補正に必要な微調整用の追加包みも、小さく三段階で用意した。
正確さは、診る前の準備に移せる。
昨日まで、私はそれに気づかなかった。
目の前の一人に全力を注ぐことが、正確さだと思っていた。
だが、閾値の手前に立つために必要なのは手数の多さではない。
ばらつきを見積もる技術と、それに合わせた準備だ。
「ドーズさん、朝からすごい集中ですね」
土間から顔を出したタクミが、小包の列を覗き込んだ。
「何を作ってるんですか」
「診察の準備だ。君は、整理券の札を、そろそろ配り始めてくれ」
「はい。
……あの昨日の夜、並んでた人たちが、こんなに増えてて。
列の端が、石段の曲がり角を越えてます」
「数は」
「四十は超えていると思います」
前日の遠征で休診にした分が、まとまって積み上がったのだろう。
私は眼鏡の鼻あてを押し上げた。
「今日は、新しい方式で診る。
時間がかかるようなら、すぐに声をかけてくれ」
午前の鐘が鳴る頃、診察を始めた。
診察の最初に、私は症状を聞く。
新しい方式でも、この手順は変えない。
静心散が扱えるのは、神経が過敏になって出る慢性の症状だ。
痛み、こわばり、眠れない夜。発熱や傷、腹の不調は、この薬の領分ではない。
そういう患者は、診る前に断り、緑十字商会の窓口か白百合の施薬所を勧める。
区分を見極めるのは、その後だ。
最初の患者は、肩の痛みを訴える中年の男だった。
体格は大、水分は少。区分表で言えば、右下の枠だ。
私は用意しておいた小包から、その枠の一つを取り出して渡し飲んだ後の反応を待つ間に、次の患者を呼んだ。
待ち時間を、診察の時間に変える。
一人を診ている間に、前の患者の反応が出る。
反応が予測の範囲内なら、そのまま帰す。
外れていれば、追加包みで補正する。
流れが、劇的に変わった。
昼までに九人、夕方までに二十四人を診た。
補正が必要だったのは、そのうち三人だけ。
いずれも、最初の量が少なかったための微調整、危険な逸脱はなかった。
一人ずつの正確さを保ったまま、数が増えた。
夕方、最後の患者を見送ってから、タリサが湯気の立つ椀を差し出した。
「お疲れさまです。
今日は、ずいぶん早く終わりましたね」
「明日からは、これが基本になる。
手順を覚えてくれると、さらに助かる」
「わたし、数字は苦手ですけど区分の見分けくらいなら」
彼女は少し照れたように笑った。
夕方、ガッツが訪れた。
肩幅の広い影が戸口に立つと、部屋の灯りが半分になったように見える。
「実地の確認を、お願いしていいっすか。
毒草の運搬です」
「二日前に、講義はしたはずだ。
手順書も渡してある」
「講義も受けたし手順書も、ちゃんと読みました。
でも、実際に毒草を運ぶ場面で俺のやり方が合ってるか確認したいんです。
ちょうどドーズさんの静心散に使う曼陀羅草が、そろそろ足りなくなる頃でしょう。
日が落ちて採取に行くなら、運ぶ役を俺にやらせてください」
私は少し考えて、頷いた。
静心散の材料の一つは、石垣の陰に生える曼陀羅草だ。
診察の数が増えれば、必要な量も増える。
これまで私が一人で夜間に採っていた分では、とても足りない。
そして、この草は素手で触れれば経皮中毒を起こす。
あの新人隊員の件が、頭をよぎった。
日が落ちて暗くなるのを待ち、私たちは北側の石垣に向かった。
暮れ残る空の下で、ガッツは持参した革の手袋を二重に重ね、その上から油を染み込ませた布を巻いた。
首元と袖口は紐で縛り、顔の下半分は布で覆っている。
「手順は、手順書のとおりに」
「確認する。
素手で触れない、顔や目に手を近づけない採った葉は金属の挟みで掴み、そのまま密閉できる籠に入れる。
落としたら、拾うのは手ではなく挟みと棒」
「はい。
それと、運ぶ途中で籠が開く可能性を考えて、落ちたときの手順を最初に決めておきます」
彼は籠の紐を確かめながら言った。
「風下に人がいないか確認する。
周囲の人間を三歩以上、後ろに下がらせる。
散った葉は、挟みで拾って別の籠に。
拾えない小さな破片は、水を掛けて流す。
……こんな感じでしたよね」
「完璧だ。習得が早いな」
「運ぶのが仕事ですから」
その言い方に、私は感心した。
夜の石垣で、私たちは二時間をかけて葉を丁寧に採った。
ガッツは挟みの扱いが器用で、私の指示を一度聞くと同じ速度で、同じ精度で葉を切り取っていった。
採取を終えた葉は、密閉できる籠三つに分けて収めた。
ガッツが背負い籠に積み、油布で包んで縛る。
私は籠の蓋の隙間を、念のため蝋で塞いだ。
外縁の家に戻る頃には、夜の九時を回っていた。
事件が起きたのは、路地に入る手前だった。
路地では、整理券を持った人々が毛布を敷いて夜を明かす支度をしていた。
その間を、ガッツが背負い籠を担いで進む。
路地は狭く、人が左右に並んでいるため通るのがやっとだった。
毛布の間から、小さな影が飛び出した。
七、八歳ほどの男の子だった。
母親のそばで眠れずにいたのが、何かに気を取られて走り出したのだろう。
ガッツの背負い籠の脇に、頭からぶつかった。
籠の紐が、わずかに緩んだ。
油布の包みが傾き、蝋で塞いだ蓋の一つが外れた。
曼陀羅草の葉が数枚、地面に落ちた。
「動くな」
ガッツの声が低く、よく通った。
彼は少年の肩を片腕で抱え、盾を持ったもう片方の腕を大きく横に払った。
「みんな、三歩下がってくれ。
この草は触ると毒だ。
風下に立つな。
子どもは、親が抱え上げて」
彼は落ち着いて背負い籠を地面に下ろし、素早く挟みを手に取った。
落ちた葉を一枚ずつ拾い、別の籠に入れていく。
素手では、一度も触れない。
男の子は目を丸くして、母親に抱きかかえられた。
私も駆け寄り、手袋をはめて残った葉の確認を手伝った。
「何枚落ちた」
「四枚。
拾ったのは四枚。……あっ」
ガッツが、近くに立っていた中年の女に目を向けた。
女の袖口に、緑色の小さな破片が貼りついている。
「こ婦人!その袖、触らないでください。
ドーズさん」
「見せてくれ」
私は女の腕をそっと取り、袖口の破片を挟みで取り除いた。
肌には触れていない。
念のため、袖口の布を濡らして周囲を拭き取る。
「肌に触れてはいない。
症状は出ないはずだが、念のため洗い流そう」
水を張った桶で女の腕を洗い、乾いた布で水気を取った。
皮膚に赤みは出ていない。
「大丈夫だ。
安心したまえ」
女はほっと息をつき、何度も頭を下げた。
周囲の人々が、静まり返っていた。
誰も、騒がなかった。
落ちた葉が毒だと分かった瞬間に、全員が後ろに下がったのだ。
ガッツの指示の速さが、混乱を防いだ。
ガッツは額の汗を拭った。
「……あぶなかった。
もう少し紐を強く締めておけば」
「いや。
君の判断が早かったから、被害が出なかった。
事故の可能性を最初に想定していた。
それが全てだ」
「落ちたときの手順を決めてたからっす。
ドーズさんに教わらなかったら、たぶ、素手で拾ってました」
彼は苦笑した。
「そうしたら、俺が一晩寝込んで荷も駄目になってた」
私は、言葉を探した。
「君は運び屋として、一流だ。
危険物を運ぶ技術は、運ぶ前から始まっている」
「ありがとうございます」
ガッツは籠の紐を締め直し、それから少し言い淀んで顔を上げた。
「ドーズさん。
さっきの動き、手順書の最後に足してもらえませんか」
「籠が開いたときの動きかね」
「はい。
三歩下がらせて、風下を空けて挟みで拾う。
ギルドの新人に回すなら、そこまで書いてあるほうがいい」
「分かった。
君が今夜やった順番のまま書き足そう」
私は頷いた。
「手順書は、君の経験が入ったほうが使える」
ガッツは、嬉しそうに頭をかいた。
彼の頭上のマーカーが、ランタンの灯を受けて光っていた。
[ガッツ][アトラス物流ギルド]
名前と所属を、堂々と出している。
翌日の診察は、午前十時から始まった。
前日に作った九種類の分類表は予想以上に効果を発揮した。
群衆の整理は、タクミが担当した。
曼陀羅草の事件を目撃した人々が、率先して列を整えてくれたこともあり、混乱は起きなかった。
夜までに二十六人を診て、診察を終えた。
その日の最後に診たのは、四十代の人間種の男だった。
体格は中、水分は普通。
区分表の真ん中の枠で最も標準的な一人だ。
肩から腕にかけての慢性的な痛みを訴えている。
渡した小包の中身は、表どおりの最初の量だ
。男が飲み下してから三分、私は手を止めて男の様子を見た。
脈は、飲む前より四つ上がっている。
瞳孔は、灯りに向けると縮むが戻りがわずかに遅い。
唇は、まだ湿っている。
以前の私なら、ここでは何も言えなかった。
口の渇きという最初の徴候が出るまで、十分待つしかなかったからだ。
だが、いまは違う。
この男は毒性の発露の境目まで、まだ余裕がある。
追加包みの一袋目までは入る。
二袋目を足せば、越える手前まで来る。
その判断が、徴候を一つずつ並べて推論するより先に結論の形で浮かんだ。
私は、この感覚をそのまま信用することはしなかった。
手帳に、「追加は一段目まで。二段目は不可」と書く。
そのうえで男に追加包みの一段目を渡し、さらに十分、様子を見た。
唇は湿ったまま、脈は一つ上がっただけで口の渇きは出なかった。
「痛みは」
「だいぶ、楽になりました」
男は肩を回し、驚いたように笑った。
予測は、合っていた。
この数日、私は同じことを繰り返してきた。
診察のたびに、最初の三分で徴候を見て追加の量を手帳に書いておく。
結果が出てから、答え合わせをする。
今日、その印をつけた患者は八人。
合っていたのは七人。外れた一人は予測よりも安全側の結果だった。
外れても、毒性の側に越えた例はない。
これが、〈閾下投与〉という技能の実体なのだろう。
数字として見えるわけではない。
徴候から、境目までの距離を見積もる精度が上がっている。
同じ観察から、同じ時間で、より遠くまで読める。
補正が必要だった患者は、今日の二十六人のうち一人だけ。
昨日の三人より、少ない。
一人ずつの正確さが準備と、この技能に支えられている。
診察を終えた後、私は手帳を開いて今日の数字を書き入れた。
手帳に書き留めた症例は、百四十を超えた。
設計書の骨組みは固まってきた。
体格と水分と反応の関係は、薬が変わっても似た型に収まる。
残るのは、その型から外れる例外の扱いだ。
美緒の猶予は、あと一週間足らず。
設計書を教授に渡せる形に仕上げるには、あと数日分の症例が要る。
毎日二十六人を診られるなら、間に合う。
計算は、合っている。
余裕は少ないが、合っている。
ログアウトする前に、棚に並んだ小包を見渡した。
九種類の列。
タクミが整えた整理券の束。
ガッツが運んできた、密閉された籠。
どれも、私一人では揃えられなかったものだ。
それでも、最後の一匙を決めるのは、私にしかできない。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
LOG_ID: 8874
EVENT: PRE_PORTIONED_DOSE_SYSTEM / HAZARDOUS_PLANT_TRANSPORT
LOCATION: OUTER_PUBLIC_ZONE / SAFEHOUSE_TALISA
SUBJECT: PC_DOSE
DOSE_SYSTEM: 9_CLASSES (BODY_SIZE x HYDRATION) + 3_ADJUSTMENT_PACKS
ADJUSTMENT_RATE: 3_OF_24 (CASE_DAY_1) / 1_OF_26 (CASE_DAY_2) / NO_DANGEROUS_DEVIATION
CASES_DAY_1: 24 / CASES_DAY_2: 26 / DAILY_CAP_ESTIMATE: 26 (RAISED)
SKILL_ACTIVE: SUBTHRESHOLD_DOSING / PREDICTION_LOG=8 / MATCH=7 / MISS=1 (SAFE_SIDE) / TOXIC_SIDE_OVERSHOOT=0
HAZARD_TRANSPORT: PLAYER_GUTS / MATERIAL=CONTACT_TOXIC_PLANT / CONTAINMENT=SEALED_BASKET x3
SPILL_INCIDENT: MINOR (4_LEAVES) / CHILD_COLLISION / RESPONSE_TIME=SHORT
SPILL_OUTCOME: NO_SKIN_EXPOSURE / ONE_SLEEVE_CONTAMINATION_REMOVED
HANDLING_PROTOCOL: PRE_DEFINED_SPILL_PROCEDURE (APPLIED_CORRECTLY / SOURCE=WRITTEN_PROCEDURE)
PROCEDURE_UPDATE: SPILL_RESPONSE_ADDED (SOURCE=PLAYER_GUTS / DISTRIBUTION=ATLAS_LOGISTICS_GUILD_ALLOWED)
BBS_TRACE: ACTIVE (CONTENT_NOT_DISPLAYED)
TITLE_PROGRESS: HIDDEN




