第28話「曲がり角の観察者」
翌日の昼、菌糸は約束どおりに現れた。
午前九時にログインし、午前中の診察は十二人で切り上げた。
残りは夜に回したが、順番を待つ者の数は減らなかった。
夜を明かした何人かが、路地の壁際に毛布を敷いている。
タリサが彼らに白湯を配って回っていた。
「早いな。
昼と言ったが、まだ正午の鐘が鳴っていない」
「待たせるよりは、待つほうが性に合っています」
紺色のローブの彼女は前日と同じ平坦な声で答え、路地の隅の木箱に腰を下ろした。
頭上のマーカーには、今日も名前と所属が出ている。
「約束の件、始めて構いませんか」
「見るだけだ。
口出しはしないように」
「承知しています」
私は午前の最後の患者の前に戻った。
四十代の人間種の女で、慢性的な頭痛を訴えていた。
体重と水分、睡眠の長さ、頭痛が出る時刻を順に訊き静心散の量を決める。
天秤に載せる小さな匙を、二度、三度と取り替えた。
菌糸は何も言わず、小さな手帳に何かを書き込んでいた。
彼女の視線は、私の手元と、天秤の針と、患者の顔の三か所を一定の間隔で行き来している。
診察が終わると、彼女は手帳を閉じて言った。
「想像より、手数が多いですね」
「正確に出そうとすれば、そうなる」
「その手数が、これからの患者数を支えられないことはご自身でわかっているでしょう」
「わかっている。
だから、君の提案を使う」
彼女は短く頷いた。
「では、区画を歩きましょう。
歩きながら、境界を引きます」
タリサに留守を頼み、私たちは外縁の採取地へ向かった。
心葉草の自生する渡来の岸の湿地、曼陀羅草の石垣、傷癒草の斜面。
三つの区画は、坂の途中で互いに離れていて歩けば四十分ほどかかる。
途中、菌糸は一定の距離ごとに立ち止まり地面に小さな杖の先を突いた。
杖の先端から、薄い光が土に染み込み、彼女の目の前に淡い色の図が浮かぶ。
「ここは、活性が七割。
まだ持ちこたえています」
「向こうは」
「あちらは五割を切っています。
採りすぎた跡が、そのまま出ています」
私が最初に過剰採取を悔やんだのは、傷癒草の黄ばみを見たときだった。
あれは、土壌の微生物が壊れかけていた兆候だったのだ。
数値にして示されると、その事実は重い。
三つの区画の境に目印の石を置き終えたとき、私は道の先の曲がり角を振り返った。
二日前から、その角に視線を感じていた。
昨夜も、角の暗がりに気配があった。
気配は荒く、足音を殺す技術もない。
隠れているというより、隠れているつもりになっているだけだ。
「菌糸さん。
少し、ここで待っていてくれ」
「あの角の人ですか。
私も、気づいていました」
彼女は表情を変えずに言った。
「私が先に行きましょうか。
探査魔法で、距離と位置を確認できます」
「いや。
私が呼ぶ」
私は石段を三段降り、曲がり角の手前で立ち止まった。
「そこにいる君。
出てきたまえ。
隠れていても、足音の癖で分かる」
しばらく沈黙があった。
それから石壁の陰から、一人の青年がおずおずと姿を現した。
人間種で、二十歳前後に見える。
真新しい革の胸当てに、薬草採取人の初期装備。
腰の袋は不自然に膨らんでいて、中から羊皮紙の端がはみ出ている。
頭上には、何も灯っていない。
ギルドに所属していない、私と同じ立場の者だ。
「す、すみません。
つけていたつもりは、その観察させてもらっていただけで」
「同じことだ。
いつからだね」
「ええと……PKと戦っていた日からです。
あの曲がり角で、ずっと見ていました」
やはり、あの日の曲がり角の観察者は君だったのか。
私は眼鏡の鼻あてを押し上げた。
「君は、白百合の人間か」
「違います。
僕は、どこにも入っていません。
タクミ、といいます。PNです。
薬学部の学生なんです」
「薬学部」
「はい。現実では、ですけど。
ドーズさんの、あの戦い方を見て何をやっているのか、まったく分からなくて。
でも、分からないのが悔しくて毎日ここに通っていました。
今日は観察のつもりが、足音を立ててしまいました」
背後で、菌糸が小さく息を吐いた。
「そのメモの束は」
彼女が静かに訊いた。
タクミと名乗った青年は袋に手をやって、慌てて羊皮紙を押し込んだ。
「採取跡の、記録です。
ドーズさんの通った場所と、草の状態を。
それと、写真も撮りました」
「掲示板に載せましたか」
私が尋ねると、彼は肩をすくめた。
「……載せました。
過剰採取の跡の写真と、その時期を。
ドーズさんを責めるつもりではなくて土壌の問題として、現象を残しておきたくて」
菌糸が静かに、しかしはっきりと言った。
「それを拾って、私は土壌の診断を始めました。
あなたのおかげで、時系列が追えたのです」
「えっ」
「感謝します。
ただ、一つ確認させてください。
患者の位置や、この住居の場所を掲示板に載せたことはありますか」
「ありません。
それは書いてはいけないと思って」
「正しい判断です」
私は、青年を見た。
観察者に熟練はなかった。
だが、記録の癖は悪くない。
観察対象の位置と時間を、必ず併せて書いている。
「タクミ君。
一つ、仕事を頼みたい」
「仕事、ですか」
「路地の行列を、整理してほしい。
薬には、一切触らせない。
私の診察室にも入らない。
やるのは、順番札の配布だけだ」
私は台に置いてあった羊皮紙の切れ端を二枚拾い、一枚に数字を書いた。
「毎朝、先着の二十人に、この数字の札を渡す。
残りの者には、翌日の整理券を渡す。
整理券は、翌日の先頭から順に呼ぶ。
そうすれば、夜通し並ぶ必要がなくなる」
彼の目が見開かれた。
「それは……すごく効率がいいです」
「診察の正確さを落とさず、待つ人の負担だけを減らす。
条件は三つだ。
患者の名前と症状を、外に漏らさないこと。
この家の場所を、掲示板に書かないこと。
私の許可なく、薬を渡さないこと」
「守ります。
絶対に」
彼は深く頭を下げた。
菌糸が、ぼそりと呟いた。
「扱い方次第で、情報は毒にも薬にもなりますね」
「その通りだ。
量とタイミングの問題だよ」
タクミは顔を赤くして、もう一度頭を下げた。
外縁の家へ戻ると、路地の入口に見慣れない大男が立っていた。
身の丈は、私より頭一つ高い。
肩幅が広く、背中には大盾を背負っている。
日焼けした肌に、潮風で乾いた髪。
頭上には、はっきりと表示が出ていた。
[ガッツ] [アトラス物流ギルド]
「遅いっすよ、菌糸さん。
待ちくたびれて、そこのお婆さんに、ほとんど世間話の相手をしてもらってました」
大男は私の予想に反して、ひどく軽い声で言った。
「申し訳ありません。区画の測量が長引きました」
菌糸は、いつもの調子で応じた。
「ドーズさん。こちらは、ガッツさんです。
物資の運搬が専門です。
戦士ですが、運ぶことで有名になった人です」
「無傷の運び屋、とか言われてますが、ただ運ぶのが好きなだけです」
ガッツは、私に向かって片手を挙げた。
「初めまして。
毒を扱うって、噂は聞いてます。
変わった人かと思いましたが、普通でよかった」
「普通かね。
君の基準では」
「いやあ。変な人には慣れているので」
彼は菌糸にちらりと目をやった。
菌糸は、表情を変えなかった。
「本題に入りましょう」
彼女が私に向き直った。
「素材の問題を、二段階で解きます。
第一段階は、先ほどの輪番採取。
これで、近場の土壌が回復するまで九日かかります。
ただし九日待っているうちに、患者は増えていきます。
そこで、第二段階。
近場以外から、高品質の素材を調達する」
「どこからだね」
「高欄貴族区の麓、瘴嶺の手前に未採取の自生地があります。
心葉草も接骨草も、土壌の状態が良い。
ただし、そこへ至る道は二つの理由で難しい」
彼女は指を二本立てた。
「一つ目、急峻な裏道で、登坂適性が要る。
二つ目、手前の森に、大型のモンスターが出る」
私は黙って聞いた。
私には、登坂適性がない。
人間種で、薬草採取人で、生産職のHPは戦闘職の三分の一。
急坂を一人で登れば、体力が持たない。
モンスターに会えば、一撃で終わる。
「だから、ガッツさんです」
菌糸が、静かに続けた。
「ガッツさんは、その区画までの運搬を何度も経験しています。
道もモンスターの出る時刻も、頭に入っている。
素材を採るのは私と、ドーズさん。
運ぶのは、ガッツさん」
「俺は運搬役で、採取は素人です。
だから、素材の見分けは、お二人に任せます」
ガッツが胸を叩いた。
「ただ、一つだけ、お願いがあります」
「何かね」
「俺は物を運ぶ仕事の中で、毒草や、危険な部位を運ぶことがあるんです。
取り扱いを間違えたことがある。
仲間が一人、手袋なしで毒草の葉に触って一晩、起き上がれなくなった。
あのときは、傷癒水も効かなかった。
……毒を扱う専門家に、運び方の基本を教えてもらいたい」
傷癒水が効かなかった。
その言葉に、私は引っかかった。
曼陀羅草の経皮中毒に、傷癒水は効かない。
白百合の新人隊員が、そうだった。
私は頷きかけて、そこで止めた。
「待ってくれ。
その条件では、君に分が悪い」
「そうっすか? 教えてもらえるだけで十分ですよ」
ガッツは笑って手を振った。
「十分かどうかは、危険の大きさで決まる」
私は首を横に振った。
「急峻な裏道の往復と、森の大型の獣だ。
命を賭けるのは君で、私は素材をもらう側になる。
講義が一回では、取引が続かない」
「ドーズさんは、そういうところ細かいですね」
菌糸が、いつもの平坦な声で言った。
「細かくなくては、薬は作れない」
私は指を三本立てた。
「一つ目は、講義だ。
毒草の取り扱いを、実際に手を動かして教える。
二つ目は、手順書だ。講義の内容を紙に書き起こして渡す。
運ぶ前に何を確かめ、運ぶ間に何を避け、運んだ後に何を洗うか。
君の仲間にも、ギルドにも回して構わない」
「ギルドにも、いいんすか」
ガッツの目が丸くなった。
「うちは危険物の依頼も受けるんで、手順が紙になっているのは助かります。
新人に口で教えるのは、限界があるので」
「三つ目は、素材だ」
私は続けた。
「持ち帰った分のうち、私の必要量を超えた分の半分を君の取り分にする。
高品質の素材は、市場でも高く売れる。
選別と保管は、菌糸さんと私が行う」
「半分っすか。
それは、もらいすぎじゃ……」
「危険の大きさに見合った量だ。
受け取ってくれ」
ガッツは頭をかき、それから、にっと笑った。
「じゃあ、決まりっすね。……ありがとうございます」
「いつ出ますか。早いほうがいい」
「明後日の夜明けにしましょう」
菌糸が答えた。
「明日の一日で、準備ができます。
輪番採取の初日と、ガッツさんへの講義。
それから、出発前の遮光容器の確認」
「明後日、か」
私は頭の中の帳簿を引いた。
接骨草の抽出液は、いまの在庫で、あと二日が限度だ。
明後日の夜明けに出て、日没までに戻れば補充が間に合う。
間に合う。
ぎりぎりの計算だが、合う。
「承知した」
その夕方から夜にかけて私はタクミに順番札の配り方を教え、タリサに白湯の量の目安を伝え棚の整理をした。
残りの八人を診て診察を打ち切り、列の最後尾にいる者に整理券を渡した。
午後九時、十二時間の上限の手前でログアウトする。
睡眠は、六時間取る。
ギアを外してから、自分の手を見た。
震えはなかった。
美緒の猶予は、あと十日足らず。
土壌の回復は九日。
仲間は、三人に増えた。ここまでの数字は、揃っている。
残りは、実行だけだ。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
LOG_ID: 8872
EVENT: SOIL_ROTATION_SURVEY / QUEUE_TICKET_SYSTEM_ADOPTED
LOCATION: OUTER_PUBLIC_ZONE / ISHIDAN_FOOTHILL
SUBJECT: PC_DOSE
CASES_TODAY: 20 / DAILY_CAP_ESTIMATE: 20
OBSERVER_IDENTIFIED: PLAYER_TAKUMI (GUILD: NONE / MARKER: NONE / PROFESSION: HERB_GATHERER)
OBSERVER_ACTION: BBS_POST_PRIOR (SOIL_EVIDENCE_PHOTOS / NO_PATIENT_DATA)
AGREEMENT_NOTE: QUEUE_TICKET_ONLY / NO_DRUG_HANDLING / NO_LOCATION_DISCLOSURE
SOIL_ACTIVITY: ZONE_A=70 / ZONE_B=48 / ZONE_C=52
ROTATION_PLAN: 3_ZONES / RECOVERY_ETA=9_DAYS
NEW_CONTACT: PLAYER_GUTS (GUILD_VISIBLE=ON / ROLE=TRANSPORT)
CONTACT: PLAYER_KINSHI (GUILD_VISIBLE=ON)
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