第27話「行列の閾値」
約束どおり六時間眠り、午後三時にログインした。
目を開けると、見慣れた天井があった。
タリサの家の、煤けた梁だ。
体を起こすより先に、異変に気づいた。
壁の向こうが騒がしい。
人の声が、一つや二つではない。
「ドーズさん、起きましたね」
扉の隙間から、タリサが顔を出した。
外縁の暮らしで日に焼けた顔に、困惑と安堵が半分ずつ浮かんでいる。
「何かあったのかね」
「見てもらったほうが早いです。
朝からずっとなんです」
彼女に促されて窓の板戸を押し上げ、私は言葉を失った。
家の前の路地から、石段の曲がり角まで人が並んでいた。
ざっと数えて三十人。
杖をついた老人がいる。
子どもを背負った母親がいる。
荷役らしい屈強な男が、腰を押さえて壁にもたれている。
頭上に名前も所属も出していない無地のマーカーを灯した者が、五、六人ほど混じっていた。
「……これは、どういう現象かね」
「通れるようになったからです」
タリサが言った。
「中央坂道の通行が、元に戻ったでしょう。
白百合の人たちが、昨日の夜のうちに道を開けたんです。
それで、ずっと遠回りしていた人たちが一気に来られるようになって」
なるほど。
取引の三条件のうち、一つ目が思わぬ形で効いたわけか。
道が開けば、人が通る。
人が通れば、噂が運ばれる。
昨夜から掲示板が盛り上がっていたのも、これで説明がつく。
私は眼鏡の鼻あてを押し上げた。
需要が、供給を一晩で追い越した。
問題は、この行列の中身だ。
「診療録の写しは、届いているかね」
「はい、昼のうちに。
荒人の方が、自分で持ってきました。
昨夜の立会人の方だと思います。
分厚い束ですから、棚の上に置いてあります」
束は羊皮紙で、指三本ほどの厚みがあった。
白百合の施薬所が、傷癒水を出した患者の記録である。
日付、症状、投与量、経過。立会人の署名が頁ごとに添えてある。
私は立ったまま、最初の十頁ほどを繰った。
それから、三十頁目を開いた。
記録は、実に丁寧だった。
画一的な処方を出すと決めた組織にしては、驚くほど几帳面に患者の体格と経過が書かれている。
だから見えた。
効かなかった例が、偏っているのだ。
体の大きな者。
水をあまり飲まない者。
逆に、水を溜め込みやすい者。
タリサの例が、その典型だった。
画一的な量は平均的な体格の人間にだけ、ちょうどよく届く。
両端にいる者には、足りないか効きすぎる。
「……実に理にかなっている」
つぶやいてから、束を閉じた。
読み込むのは後だ。
今は、外に三十人いる。
木の椅子を一つ、路地に出した。
もう一つを向かいに置き、膝の高さの台に天秤と小瓶を並べる。
「順番に、一人ずつ診る。
一人あたりに、時間をかける。
その代わり、今日診られる人数には上限がある」
最初に呼ぶ前に、列へ向かって声を張った。
ざわめきが静まる。
「先に言っておく。
私は、全員に同じ量は出さない。
体重と水分と、症状の出方を見て一人ずつ量を決める。
時間がかかるが、これが私のやり方だ。
待てない者は、他へ行ってもらって構わない」
誰も、列を離れなかった。
最初の患者は、荷役の男だった。
三十代、山人。
腰の痛みで夜に眠れない、と言う。
「体重は」
「九十は超えてるはずだ」
「水は、ふだんどれくらい飲む」
「ほとんど飲まねえよ。
汗をかいても、そのままだ」
脈を取り、舌の色を見る。
やや乾いている。
ここまで揃えば、答えは単純だった。
体が大きく、水分が少ない。
静心散の分布容積は小さく見積もるべきで、体重だけで量を出すと以前の石切職人と同じ轍を踏む。
天秤に載せたのは標準量の一・二倍ではなく、一・一倍だった。
「飲んだら、水を一杯余計に取りたまえ。
夜の痛みが引かなければ、明日の昼にもう一度来ること」
男は拍子抜けしたような顔で、小瓶を受け取った。
二人目は、熱を出した子どもを抱えた母親だった。
体重を訊き、舌を見て、腕の内側を押さえる。
子どもの場合は、体重一キロあたりの量が大人より小さい。
その代わり、代謝が早いので間隔が狭くなる。
小さな匙で、さらに小さな単位に分けた。
「三回に分けて、夜まで飲ませなさい。
飲ませる時刻を、ここに書く」
母親は何度も頭を下げた。
三人目、四人目。足を引きずる老人、不眠の女、手の震える若い男。
若い男の頭上には、無地のマーカーが灯っていた。
名前も所属も、伏せている。
「ログアウトした後に、手が震えるんです。
現実で」
その言葉に、私は手を止めた。
「ダイブ明けに、現実の手が震えるのかね。
何時間、潜っている」
「十時間くらい。毎日」
「食事と水分は」
「ゲームの中では、ちゃんと」
「現実の体のほうだ」
彼は黙った。
私は薬を出さなかった。
「これは、薬の問題ではない。
現実の体に、電解質と糖が足りていない。
ログアウトしたら、まず水に塩を少し溶かして飲み、固形物を食べなさい。
それで震えが引かなければ、現実の医者へ行くこと」
「それだけ、ですか」
「それだけが、一番効く。
量の問題だよ」
彼は不満そうだったが、礼を言って去った。
診察を続けるうちに、陽が傾いた。
七人、八人、九人。
診るたびに、私は頭の中の帳簿を更新していた。
使った心葉草の量、静心散の残り、乾燥棚の在庫。
十一人目で、最初の壁に当たった。
心葉草の棚が、空になった。
土壌の疲弊を見たときから、わかっていたことではあった。
過剰に採れば、再生する草の質が落ちる。
いま棚に残っているのは、Dランクの束がせいぜいだ。
D素材で作る静心散は、効きが一定しない。
ロットごとに有効成分の濃度がずれる。
濃度がずれれば、同じ量でも、効き方が変わる。
量を測る技術があっても、測る対象が揺れていては精密さは意味を失う。
接骨草の抽出液は、さらに悪かった。
昨夜の治療で、三分の一を割っている。
これは、緊急の救命用に取っておく。
普段の患者には、使えない。
私は、天秤の皿を見つめた。
一人ずつ正確に診れば、数をこなせない。
数をこなそうとすれば、一人ずつの正確さを削ることになる。
白百合が画一化に傾いたのは、愚かだからではない。
この板挟みに、真正面から答えを出さなかっただけだ。
現実の医療も、量と時間は緻密に計算している。
血中濃度を測り、体重で割り、手順に沿って刻む。
問題は、その外側にある。
安全域を広く取った集団の基準は、個人の窓の端までは測らない。
端を測れば、その個人が危険になるからだ。
私がここで集めているのは現実では倫理上、誰にも測れない閾値の手前の反応だった。
十日で仕上げるのは、薬ではない。
教授が自分の測定で確かめられる形の、投与の設計書だ。
個人の窓の幅を何で見積もり、どの時刻に何を測り、どう刻むか。
仮説と観察計画にすぎない。
採るか採らないかは、教授が決める。
ただ、一人の症例では偶然と区別がつかない。
数が要る。
では、私はどうするか。
答えは、まだ出ていなかった。
その日、私が診たのは十八人だった。
十九人目の前で、天秤を置いた。
「今日はここまでだ。
残りの方は、明日来てほしい」
列に、ざわめきが走った。
「ふざけるな。
こっちは朝から並んでるんだぞ」
先頭近くにいた、無地のマーカーの男が声を荒らげた。
体格のいい戦士風で、頭上には名前の出ていないマーカーだけがある。
「金なら払う。少し急いで診てくれればいい」
「量を決めるのに、必要な時間がある。
それを削れば、あなたの体に責任が持てない」
「責任なんか要らねえよ。
薬を出してくれればいい」
「私が要る。
それが、私のやり方だ」
男は舌打ちをして、肩をいからせて背を向けた。
他の何人かが、後に続いた。
残った者たちは、黙って頷いた。
数人は、地面に腰を下ろしてしまった。
ここで夜を明かすつもりらしい。
タリサが、小声で言った。
「怒らせて、よかったんですか」
「構わない。
待てる者だけ、残ってくれればいい。
ただ……」
私は、空になった棚を見た。
「明日も、今日と同じ数が来る。
そのとき、道具がない」
その時だった。
路地の暗がりから、足音が近づいた。
紺色のローブ。つばの広い帽子。
頭上に灯るマーカーには、はっきりと名前と所属が出ていた。
[菌糸] [探査魔導院]
初日に緑十字商会の中で、一言も交わさずにすれ違った魔法使いだった。
「ドーズさんですね」
彼女は、挨拶もなしに言った。
声に抑揚がない。
淡々と、事実を一つずつ並べるような話し方だった。
「菌糸といいます。
覚えていらっしゃらないかもしれませんが、初日に緑十字商会の中ですれ違った者です」
「覚えているよ。
紺色のローブだった」
「記憶力がいいですね。
助かります。話が早い」
彼女は懐から巻物を一本取り出し、私に見せた。
羊皮紙には、等高線に似た図が描かれていた。
外縁から渡来の岸にかけての地図に、色で濃淡がつけられている。
「探査魔法を、土壌の診断に転用しています。
ここ数日、あなたの採取地を調べていました。
心葉草と傷癒草の自生地です。
許可なく調べたことは、謝ります」
「謝罪は不要だ。結果を教えてくれたまえ」
「土壌の微生物活性が、基準値の六割以下に落ちています。
過剰採取の影響です。
ただし、完全に壊れてはいない。
休ませれば、およそ九日で回復の傾きが出ます」
九日。
私は眼鏡の鼻あてを押し上げた。
「全部を休ませる余裕はない。
毎日、患者が来る」
「ええ。
だから、提案があります。
区画を三つに分けて、輪番で採る。
三分の一を採ったら、残りの三分の二は触らない。
次の日は別の区画。
こうすれば、各区画が休む時間が生まれ、微生物活性が持ち直します。
素材の質も、D止まりからBまで戻る見込みです」
「根拠は」
「微生物の増殖速度と、あなたが採った量の記録です。
少し前の掲示板に、あなたの採取跡の写真が載っていました。
あれが、過剰採取の時系列の証拠になりました」
私は一瞬、言葉に詰まった。
私自身は載せていない。
誰かが撮ったのだろう。
それを菌糸は、データとして拾い上げた。
「見られていたわけか」
「見ていました。気を悪くしましたか」
「いや。実に合理的だ」
本心だった。
ここまで徹底した観察者を、私はこれまで見たことがなかった。
「条件を聞こうか」
「条件は、二つです」
彼女は指を二本立てた。
「一つ目。
曼陀羅草のアルカロイドについて、あなたが取った測定データを写させてください。
患者の名前や個人の記録は要りません。濃度と、症状の出方の対応だけです」
「構わない。
何に使う」
「別の人に渡すかもしれません。
農業系で、植物の成分を調べている人がいるのです」
渡す先を訊くのは、野暮だろう。私は黙って頷いた。
「二つ目は」
「あなたの調合を、この目で見たい。
一回だけでいいです。見せていただけませんか」
私は、少し考えた。
それから、頷いた。
「明日の昼に来たまえ。
ただし、患者の前だ。
邪魔はしないように」
「邪魔はしません。
観察は、得意です」
彼女はそれだけ言って、巻物を私に預けた。
「地図は、差し上げます。
明日、実際に区画を歩きながら境界を引きましょう。
では」
きびすを返して、暗がりに消えていった。
足音は、すぐに聞こえなくなった。
私は地図を手に、しばらく立っていた。
供給の問題に、輪番という答えが見えた。
九日間の、短くはない時間が要る。
その間、持ちこたえなければならない。
それでも、出口の形が、初めて見えた。
曲がり角の暗がりに、また視線を感じた。
昨夜から数えて、三度目だ。
私は振り向かなかった。
観察者は熟練者ではない。
気配が、荒い。
時間のあるときに、こちらから確かめればいい。
残った列を見渡し、声を張った。
「今夜は、重い症状の人だけ診る。
軽い者は、明日の朝に」
三人を診て、その日の診察を終えた。
日付が変わる前にログアウトする。
約束した睡眠は、今夜も取るつもりだった。
眠らなければ、変数を制御できない。
ギアを外す前に、私は棚に残った抽出液の瓶を見た。
三分の一を割り込んだ、琥珀色の液体。
あれを使い切る前に、補充しなければならない。
九日と、一週間。
美緒に告げた猶予と土壌が回復する時間は、ほとんど同じ長さだった。
計算は、合う。
合わせてみせる。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
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