第26話「猶予の計算」
朝の鐘が鳴るころ、娘の熱が引いたのを確かめ私はヒイラギに後を任せてログアウトした。
ギアを外すと、自室のカーテンが薄く白んでいた。
時計は午前五時を回っている。
連続ダイブの上限である十二時間に届く前に、自分から切り上げたのだ。
強制ログアウトが見張っているのは、現実の身体の異常だけ。
警告が出る前に降りるのが、毎日欠かさず潜り続けるための条件だった。
床に置いた端末が、小さく光っていた。
画面を見て、喉が鳴った。
病院からの着信が三件。
最初の一件は、日付が変わる少し前だった。
折り返す時間も惜しく、コートを掴んでアパートを飛び出した。
白んだ空の下を、病院まで走る。
徒歩で十五分の道のりが、これほど長いとは思わなかった。
高度治療病床の廊下は、朝の静けさに満ちていた。
美緒の個室の前で、主治医の教授が壁にもたれて立っていた。
目の下の隈が濃い。徹夜だったのだろう。
「九条くん」
教授は私の顔を見るなり、ゆっくりと首を横に振った。
「最悪の知らせではない。
まず、それを言っておく」
「……容体は」
「山は越えた。
少なくとも、今夜の分は」
足の力が抜けかけた。
壁に手をついて、息を整える。
「日付が変わる前に、体温は三十九度四分まで上がった。
脈拍は百四十、血圧が下がり、呼吸が落ちた。
人工呼吸器の管理レベルを上げる、直前まで行った。
君に電話をかけたのは、その時だ」
「取れませんでした。
ダイブ中で、端末を見られる状態ではなかった」
「責めてはいない。
責める筋でもない」
教授は白衣のポケットから、折り目のついた一枚の紙を取り出した。
見覚えのある手書きの数式。
三日前の夜、私が自宅から送った用量の分割案だった。
「君の案を、一部使わせてもらった。
昨夜の山場でね」
「どの部分を採られたのですか」
「治療域が消えたのではなく、血中濃度の山と谷が窓の外へ振れていた。
君の見立てはそうだったね」
「はい。
一回量が大きいとピークで副作用の側へ、谷で効果の側から外れます。
窓の幅が狭くなった患者では、量そのものより刻み方が問題になります」
「一回量を小さく分け、間隔を詰めた。
血中濃度と炎症マーカーを見ながら、一時間ごとに調整した。
……正直に言おう。
私は『増量は不可能だ』という前提に縛られていた。
増やせないなら刻めばいい。
当たり前の発想だが、あの夜まで思いつかなかった」
教授は紙を私に返した。
「効いたと断定するには、症例が足りない。
一人の患者で、一晩だ。
偶然の可能性も残る。
だが、午前三時ごろから熱が下がり始めサイトカインの再スパイクが止まった。
結果は結果として、記録しておく」
「記録の写しを、いただけますか」
「後で渡そう。
今は、会ってやりなさい」
病室のドアを静かに開けた。
モニターの電子音が、規則的に響いている。
先日までの不規則な警告音は、もうなかった。
酸素マスクは外れ、鼻に細いチューブがあるだけだ。
ベッドの上で、美緒が目を開けていた。
「……お兄ちゃん」
掠れてはいたが、はっきりした声だった。
「体調はどうだね。熱は」
私はパイプ椅子を引き寄せ、モニターに目を走らせた。
体温は三十七度二分。脈拍は八十八。
酸素飽和度は九十七。
末梢の冷感も消えている。
「三十七度台。
脈拍も落ち着いている。
急変の兆候はない」
「もう、診察みたいな言い方」
美緒が力なく笑った。
「昨日の夜のこと、ほとんど覚えてないの。
苦しかったのは覚えてる。
でも途中から、すごく楽になって」
「教授の判断が適切だった」
「お兄ちゃんの、でしょう? 先生が言ってたよ。
『お兄さんの数式が役に立った』
って」
私は答えなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。
昨日の夜、来られなかったこと気にしてる?」
「……ああ」
事実だった。
誤魔化す理由もない。
「連絡を受けられない状態にいた。
あの時間に君が危険だったことを、私は知らなかった。
それが事実だ」
「来なくてよかったんだよ」
美緒が、細い指で私の袖を引いた。
「お兄ちゃんがここで私の手を握ってたら、きっと何もできなくて、ずっと自分を責めてた。
でもお兄ちゃんは、別の場所で、私のために頑張ってた。
そうでしょう?」
「……ああ」
「だったら、それでいい。
お兄ちゃんが人生を捨ててないこと私、分かってるから。
……ねえ、毎日どんなことしてるの? 誰かの役に立ってる?」
私は少し考えてから、口を開いた。
「昨夜は、五人を診た。
同じ毒、同じような症状なのに、安全に効く量は一人ずつ違った。
体の小さい者もいれば、薬に敏感な者もいる。
最初の一滴で効きすぎる者がいて、その半分から始めた者もいた」
「それって、私の病気と同じ? 人によって、薬の効く量が違うっていう」
「その通りだ。
君の窓の幅を、正確に知ること。
私がやっているのは、その訓練のようなものだ」
「ふうん。
……お兄ちゃん、その人たちに、ありがとうって言われた?」
「感謝は不要だと答えた。
私は臨床データを収集しているだけだ」
「もう、またそれ」
美緒は呆れたように笑った。
その笑顔が先週までなかったものだと気づいて、胸の奥が静かに熱くなった。
私は、毛布の上に出ている彼女の手を握った。
細い。
冷えていない。
親指の下で、確かな脈が規則正しく打っている。
「美緒」
「なあに」
「今回の猶予は、延びただけだ。
病気が治ったわけではない」
「うん、分かってる」
「教授の話では、ステロイドの減量は慎重にやり直すことになる。
次の山が来るまで、十日前後というところだろう。
その前に、私は答えを完成させる」
「……お兄ちゃん」
「次は、間に合わせる。
今回のように他人の判断に助けられるのではなく、私の手で」
美緒は、じっと私を見つめた。
それから小さく、けれどはっきりとうなずいた。
「待ってる。
でも、一つだけ約束して」
「何かね」
「ちゃんと寝て。
お兄ちゃんが倒れたら、全部意味がなくなっちゃう」
私は言い返せなかった。
ダイブの合間の睡眠が、六時間に満たない日が続いていた。
推奨される最低限の休息すら、取れていない。
研究者として最も避けるべき状態だった。
変数を制御できない者に、精密な計算はできない。
「分かった。今日は六時間眠る」
「ほんとに?」
「約束は守る。
数値で確認してくれても構わない」
「もう、お兄ちゃんは……」
美緒は笑い、それから静かに目を閉じた。
「少し眠るね。
……来てくれて、ありがとう」
寝息が穏やかに変わるまで、私は手を握っていた。
病室を出ると、教授が廊下で待っていた。
「写しだ。
昨夜の投与記録と、検査値の推移。
持っていきなさい」
「ありがとうございます」
「九条くん。
一つだけ言っておく」
教授は真剣な眼差しで私を見た。
「君の分割案は現場の医師が、いつでも採れる方法ではない。
保険の枠、倫理委員会、責任の所在。
今回は、私が責任を負う覚悟で踏み切った。
次も同じようにできるとは限らない」
「理解しています。
だから、現実の枠の外で検証を積んでいます」
「その検証が、いつか現実に戻ってくる日を私は待っている」
教授は、短く頭を下げた。
病院を出ると、夜明けの光が冷えた舗装路を白く照らしていた。
近くのベンチに腰を下ろし、受け取った記録の紙束を広げる。
昨夜の投与の時刻、一回量、血中濃度、炎症マーカー。
数字の列が血中濃度の山と谷として、そのまま読み取れた。
午前零時、ピーク。
午前一時、谷が窓の下へ落ちて熱が跳ねる。
午前二時、一回量を半分に落とし間隔を詰める。
午前三時、曲線が窓の中へ収まり始める。
私が、あの世界で一人ずつ確かめてきた感覚と同じ形をしていた。
効く量と害する量の境目の手前で、刻みながら止める。
薬は同じでも、量の刻み方が結果を分ける。
「……実に理にかなっている」
思わず、声に出ていた。
手が、少し震えているのに気づいた。
空腹と寝不足の、単純な生理反応だ。
朝食を取っていない。
ゼリー飲料を一つ流し込み、深く息を吐いた。
一人の患者、一晩。サンプル数は一。
偶然の可能性は、まだ消えていない。
だが、あの世界で積み上げている症例が数百と積み上がれば、この仮説は偶然ではなくなる。
用量と、時間。
毒と薬を分けるのは、量とタイミングだ。
美緒の猶予は延びた。
延びただけで、消えてはいない。
その数式を、あと一週間ほどで完成させる。
手帳を閉じ、立ち上がった。
アパートへ向かう歩幅を、昨夜よりも広く取る。
六時間眠る。
それから、潜る。
約束は、守るためにある。




