第23話「噂の閾値」
戸を閉めると、家の中の空気が、ひどく静かに感じられた。
タリサは作業台の傍らで、朝の水を汲み直していた。
私が戻ったことに気づくと桶を置き、外套の肩口が裂けているのを見つけて息を呑んだ。
「先生、その肩……」
「かすり傷だ。
HPの表示は、すでに戻りつつある」
「外で、何があったの? さっき、剣の音が……」
「少し、検証を行っただけだ」
それ以上は語らなかった。
彼女は何か言いかけて、結局、乾いた布を差し出してくれた。
「無茶は、しないで。
先生がいなくなったら、あの人たち、また薬がなくなってしまう」
「死ぬ予定はない。
私が死ねば、蓄積した臨床データが初期化される。
それは、最も避けるべき損失だ」
彼女は、小さく笑った。
どこまで本気に受け取られたのかは分からない。
先に済ませるべきは、記録だ。
椅子に腰を下ろし、手帳を開く。
二人の体重の推定値、溶液の希釈率と推定投与量、散瞳が始まるまでの時間、譫妄に至るまでの時間、脈拍、皮膚の状態。
接骨草抽出液を投与したあとの経過は、風が変わったために最後まで追えなかった。
それも、追えなかった事実ごと書き添える。
数字を並べるうちに、ひとつ引っかかる点が見つかった。
散瞳の発現が、現実の薬物動態から見積もった値より、明らかに早い。
飛沫が結膜に直接触れたこと、濃度が高かったこと、霧が顔へ運ばれたこと。
条件は揃っていた。
それでも、この速さは削らずに残す。
理由の分からない差異こそ、検証の対象だ。
二人の差も、記録しておく価値がある。
先に症状が出たのは、体重の軽い人間種のほうだった。
だが、深く落ちたのは山人のほうだ。
山人は胸元に浴びた液が皮膚から、人間種は霧が目と口の粘膜から入った。
吸収経路の違いが、発症の順序と深さに表れたのだろう。
記録を閉じ、視界の端で掲示板を開いた。
あの路地には、私と二人のほかにも、見ていた者がいた。
人の口が動くのは、いつも事が終わった直後だ。
掲示板は、すでに盛り上がっていた。
読み進めるまでもなく、書き込みの数が語っている。
昼に近づくにつれて、増え方が速くなっていく。
私は内容を追うのをやめ、画面を閉じた。
何が起きたのかを、正確に理解している者は、おそらくいない。
それでいい。
知る者にしか分からない強さは、知らない者の目には、得体の知れなさとして映る。
評判・伝聞エンジンは、NPCの共同体だけの仕組みではない。
プレイヤーの口も、同じ構造をしている。
ある量を超えれば、一気に伝わる。
信用が反転した夜に見たものと、同じ現象だ。
ただ今回は、どちらへ傾くか分からない。
午後になると、戸口に人が並び始めた。
「先生、聞いたかい。
白百合の副官が、昼間から施薬所を空けてるらしい」
列の先頭にいた石切職人が、声を潜めた。
「今朝から、誰も顔を見てないんだと。
珍しいこともあるもんだ」
私は返事をせず、彼の手首に指を添えた。
「PKの噂なら、うちの近所でも聞いたよ。
でも、あたしらは先生の薬で治ったんだ」
後ろに並んでいた荒人の女性が、肩をすくめた。
「毒だろうが何だろうが、治った事実のほうが、よっぽど確かさ」
石段の民区の住民たちは、噂よりも、自分の体に起きたことを信じている。
信用が反転した夜に、私が見たものだ。
その日、診た患者は八人だった。
問診を行い、触診で体格を割り出し、用量を決めて、天秤で量る。
作業に没頭している間は、外のことを考えずに済んだ。
手帳の症例数は、四十を超えた。
だが、美緒の猶予は今週末までだ。
残された日数は、多くない。
最後の患者を見送り、窓の外へ目をやると、日が傾いていた。
路地には、長い影が伸びている。
その影の中に、人が立っていた。
山人の大柄な男。
白地に銀の刺繍の布甲冑。
見覚えのある、白百合の副官だった。
彼は、保護の溝の手前で足を止めていた。
剣は腰にない。
外した大剣を、足元の石畳に寝かせてある。
両手は、はっきりと見える位置に下げられていた。
武装を解いて現れる者は、二種類いる。
覚悟を決めた者か、追い詰められた者だ。
私は戸を開け、敷居の内側に立った。
背後で、タリサが息を詰めた気配がした。
「タリサ、奥へ。
私が対応する」
「……分かった。
気をつけて」
戸口の外で、男が深く息を吸った。
「ドーズ先生」
男の声は、低く、乾いていた。
顔色は、施薬所の前で見たときより、さらに悪い。
目の下の濃い隈、充血した目、重く垂れた瞼。
手の甲が、わずかに震えている。
数日、まともに眠っていない者の顔だった。
最初に静心散を処方した不眠の依頼主と、同じ症状だ。
皮肉な話だった。
不眠は、重い負荷を抱え込んだ者の体に出る。
彼は昨夜から、何かを一人で背負っているのだろう。
「話がある。
入れてくれとは言わない。
ここで、構わない」
「保護の外で話すつもりかね。
随分と、用心深いことだ」
「そうしないと、あんたが安心できないだろう」
もっともな判断だ。
彼は、自分が何を疑われているかを、正確に理解している。
「今朝のことで来た」
男は、わずかに視線を落とした。
「ただし、団長には聞かせられない話だ。
だから、団の者を連れずに来た」
私は、その言葉を、少しだけ吟味した。
用件は、三通り考えられる。
謝罪か、取引か、あるいは時間稼ぎだ。
いずれであっても、団長に隠すという一点だけは動かない。
「団長には、内緒か」
男の肩が、微かに動いた。
「今朝も、同じ言葉を聞いたよ」
夕暮れの風が、石段を吹き下りていった。
山から海へ向かう風だ。
副官は、何も答えなかった。
ただ、その沈黙が、答えの代わりになっていた。
足元に置かれた大剣が、夕日を鈍く跳ね返している。
それを拾い上げる気配は、彼にはなかった。
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