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第22話「霧の中の検証」

 封を切った胞子嚢を、山人の顔の高さへ放った。


 薄い殻が空中で弾け、灰色の微粒子が霧のように広がっていく。

 吹き下ろしの風は、まだ止んでいない。

 粒子は私の側から、山人と人間種の側へだけ流れていった。


「ぐっ……なんだ、前が……!」


 山人が両目を押さえ、大剣を横へ薙いだ。

 だが、この路地は狭い。

 刃は左右の塀に食い込み、鈍い衝撃音とともに弾き返された。

 腕ごと持っていかれた山人の体が、大きく泳ぐ。


 私は石段を三段、風上へ上がった。

 胞子を吸わない位置だ。

 背後にはあの溝がある。

 踏み越えれば、保護の内側へ戻れる。

 退路があるからこそ、ここまで踏み込めたのだ。


 粒子は、結膜に貼りついて涙を誘う。

 視界は灰色に濁り、まばたきのたびに痛みが走るはずだ。

 散瞳した目に、それは光と砂を同時に浴びせられるのと変わらない。


「くそっ、見えねえ……! おい、お前、そこにいるのか!」


 人間種の男が、闇雲に剣を振り回した。

 切っ先が石段を叩き、火花が散る。

 だが、その足取りは酔ったように定まらない。


 可視ステータスの上では、二人のHPは一割も減っていないはずだ。

 それでも、彼らはもう戦えない。

 数値を削り合う戦いとは別の層で、勝負は決しつつあった。


 山人の様子が変わったのは、それから二分ほど後だった。


「……蜂だ」


 山人が、虚空へ手を伸ばした。


「蜂が飛んでる。

 うるせえ、あっちへ行け……」


 何もない空間を、手の甲が何度も払う。

 指先で見えない糸を摘むような、奇妙な仕草だった。


 抗コリン作用による譫妄だ。

 意識は混濁し、現実にないものが見え始める。

 皮膚は紅潮して乾き、体温は上がり続けている。

 もはや、彼は目の前の私を敵として認識していない。


「おい、しっかりしろ……何を言って……」


 人間種の男が、膝から崩れ落ちた。

 手から離れた大剣が、石段を滑り落ちて、遠くで甲高い音を立てた。


「……ログアウトだ。

 ログアウト、しねえと……」


 男が震える手で、空中を探り始めた。

 視界の端に開くはずのメニューを探しているのだろう。

 だが、胞子に濁った目では、透過ウィンドウの白い文字も滲んで読めないらしい。

 指は何度も、見当違いの場所を押した。


 まず、強制ログアウトは発動しない。

 装置が見張っているのは、装置の中で横たわる現実の身体——脱水、循環障害、危険な心拍だ。

 毒を浴びたのはアバターであって、現実の彼らではない。

 散瞳も頻脈も、この世界の肉体が演算した結果にすぎない。


 では、自分の意思で抜ければいい。

 理屈の上では、それが最も確実だ。

 だが、非セーフティゾーンでのログアウトは、完了までの一定時間、アバターをその場に残す。

 視力を失い、意識の濁った体を、敵の目の前に晒すことになる。


 そして、感覚は現実の脳へそのまま送られる。

 毒が現実の脳を冒すわけではない。

 だが、歪められた感覚を、本人は現実として受け取ってしまう。

 山人が払っているのは存在しない蜂だが、彼にとっては、紛れもなくそこにいる。


 つまり、逃げる手段はある。

 だが、選べる状態ではなく、選んだところで安全でもない。


 私は塀に背を預け、煙の傾きを確かめながら待った。

 風が変わるまでの猶予は、残りわずかだ。

 焦って近づけば、最後の一振りをもらうことになる。


 やがて、山人の大剣が石畳に落ちた。


 巨体はゆっくりと塀にもたれかかり、そのまま座り込む。

 呼吸は速いが、規則正しい。

 まだ生きている。


 私は袖で口元を覆い、浅い呼吸で慎重に石段を下りた。

 落ちた剣を足先で端へ蹴り退け、倒れた人間種の手首へ指を添える。


 脈は速い。

 毎分百五十に近いだろう。

 皮膚は火照り、汗は一滴も出ていない。

 このまま放置すれば、熱が内側から彼らを壊す。


 殺すことは簡単だった。

 だが彼らが死ねば、復活拠点で蘇生し、装備を失い、そして再び来る。

 生かしておけば、少なくとも話ができる。


「聞こえるか。

 目を開けなくていい。

 質問に答えなさい」


 男の肩を揺すると、朦朧とした掠れ声が返ってきた


「……あ……あんた、薬屋の……」


「雇い主は誰だ」


「……副官の、旦那だ。

 山人の……白百合の」


「名前は」


「……知らねえ。

 そう呼べって、言われただけだ……」


 男は荒い息の合間に、言葉を継いだ。


「前金は、もらった。

 ……あんたが死んだら、倍出すって……団長には、内緒だって……」


「団長には、内緒か」


 私は、その一語を頭の中に書き留めた。


 白百合治療団の団長は、この襲撃を知らない。

 あるいは、知らないことになっている。

 どちらであっても、団の内側に、団長の意に反して動く者がいるという事実は、突くべき綻びになる。


 私はポーチから、接骨草抽出液の小瓶を取り出した。

 抗コリン中毒の救命に常備していたものだ。

 量を誤れば薬は毒になるが、今回の用量は、彼らの体重から割り出してある。


 倒れた男の口元へ、ごく少量を垂らす。

 続けて、塀にもたれた山人の口にも含ませた。


「飲み込め。

 ……いいか、次に私の前に立つなら、用量は倍にする。

 依頼主にも、そう伝えておきなさい」


 同じ知識が、一方では彼らを倒し、一方では彼らを救う。

 毒と薬を分けるのは、成分ではない。

 量と、タイミングだ。


 二人は、返事をしなかった。

 ただ、荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。


 顔を上げると、煙突の煙が、まっすぐ空へ昇っていた。

 風が止んでいる。


 ほどなくして、煙は逆の向き——谷から山へ吹き上げる方向へ、ゆっくりと傾き始めた。

 残っていた灰色の霧が、石段を這い上がり、私の足元へ迫ってくる。


 私は霧を避けて後退し、あの溝を跨ぎ、保護の内側へ戻った。


 その時、路地の曲がり角の向こうで、石が蹴られる小さな音がした。

 視線を向けたときには、影はもう消えていた。


 見ていた者がいる。

 この一部始終を、最初から最後まで。


 私は眼鏡の鼻あてを押し上げ、静かに戸を閉めた。

[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]

[EVT_TRACE::SESSION_02_PK_ENGAGE_02]

├─ TARGET_01 :: PLAYER [YAMABITO_WARRIOR] :: DELIRIUM_STATE (HEAT_ACCUMULATION)

├─ TARGET_02 :: PLAYER [HUMAN_WARRIOR] :: INCAPACITATED (VISION_BLOCK)

│ └─ LOGOUT_ATTEMPT : FAILED (UI_UNREADABLE)

├─ REAL_BODY :: PK_PAIR :: STATUS = NORMAL (FORCED_LOGOUT_NOT_TRIGGERED)

│ └─ NOTE : AVATAR_SYMPTOMS != REAL_BODY_VITALS

├─ INFORMANT :: PK_PAIR_TESTIMONY :: CLIENT = AGENT_NPC_ADJUTANT (RACE: YAMABITO)

│ └─ FLAG : LEADER_UNINFORMED (UNVERIFIED)

├─ CLINICAL :: ANTIDOTE_ADMIN x2 :: DEATH_AVOIDED (PK_PAIR)

├─ OBSERVER :: UNKNOWN_ENTITY_DETECTED (CORNER_NODE) -> DEPARTED

└─ DOSE_SCORE :: INTERNAL_LEARNING_LOG = RISE -> LOG_ID-8867

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