第21話「致死量の手前」
朝の光が、石段の縁を白く洗っていた。
私はタリサの家の戸口に立ち、敷地の境目を見下ろした。
敷石の色が一段暗くなる継ぎ目に、浅い溝が走っている。
この溝の外側が、保護の途切れた路地だ。
出る前に、確認すべきことが三つある。
路地の幅と勾配、そして風だ。
路地は大人一人がようやく通れる幅で、両側を石積みの塀が挟んでいる。
石段は海側へ向かって急に下り、踏面は雨に磨かれて丸みを帯びていた。
風は、と隣家の煙突へ目をやる。
立ち昇った炊煙は、細く伸びたあと、港の方角へ緩やかに傾いていた。
山から海へ吹き下ろす朝の風だ。
日が高くなって斜面が温まれば、風向きは逆転し、谷から山へ吹き上げる。
それまで、せいぜい一時間。
吹き下ろしている間に済ませる必要がある。
私は溝を跨いだ。
鼻先を、乾いた石と煮炊きの匂いがかすめる。
タリサの家の中では嗅ぎ分けられなかった、路地の空気だ。
生産職の私にとって、保護の外側とは、数字の上でそれだけ無防備な場所になる。
だからこそ、観察を怠るわけにはいかなかった。
足裏の感触は変わらない。
ただ、視界の端にあった保護の表示が、音もなく消えた。
待っていたかのように、路地の下の曲がり角から二つの影が現れた。
黒い皮甲冑の山人と、その背後に続く人間種の男だ。
山人は私より頭一つ半ほど大きく、肩幅だけで路地の幅の半分を塞いでいる。
二人とも大剣の柄に手を添えたまま、ゆっくりと石段を上ってくる。
「本当に出てきやがった。
見ろよ、丸腰の薬屋だぜ」
人間種の男が、軽く笑った。
「悪く思うなよ、先生。
恨みはねえが、ここで死んでもらう。
持ち物は全部置いていってもらうぜ」
「雇い主は白百合か」
「さあな。
聞いたところで、あんたの得にはならねえよ」
否定しない、というわけか。
直接手を下せない組織が、外部の腕を借りる。合理的な処理だ。
彼らが警戒しているのは私の薬ではなく、私の評判のほうなのだろう。
私は二人を観察した。
山人は身長のわりに胴回りが厚く、皮甲冑の重量を含めても、体重は百キロ前後。
人間種は七十キロ台といったところか。
足運びに無駄がなく、呼吸も乱れていない。
戦い慣れた者の動きだ。
戦闘職の基礎ステータスは、私の三倍に近い。
正面から受ければ、一太刀で決着がつく。
だから私は、正面からは受けない。
だが、二人とも腰の大剣は刃渡りが長い。
この幅の路地では、水平には振れない。
振るなら頭上からだ。
つまり踏み込みの直前に、必ず一拍、構えが上がる。
距離は、およそ十歩。
彼らの歩幅と石段の段差から計算すれば、山人が私の間合いへ入るまで、残りはあと数段だ。
山人の左足が、石段の五段下の踏面にかかった。
「そこだ」
右手の小瓶を、山人の二段上——彼が次に踏む踏面へ叩きつけた。
粘性の樹液を煮詰めた移動阻害剤が砕け、琥珀色の液体が石の丸みに沿って、下り坂を這うように広がっていく。
「あ?」
踏み出した山人の左足が、ぬるりと止まった。
引き抜こうとした靴底に樹液が糸を引き、石に貼りついたまま伸びる。
背後の人間種が山人の背にぶつかり、「おい、止まるな!」と怒鳴った。
一人分の幅しかない路地では、先頭が詰まれば、後ろは動けない。
「小細工しやがって!」
山人が大剣を抜き、頭上へ振りかぶった。
切っ先が両側の塀を削り、火花が散る。
やはり上からだ。だが私との距離は、まだ四歩ある。
足を取られた体勢では、この四歩は埋まらない。
私は左手の小瓶の栓を、親指で弾き飛ばした。
中身は、夜間に採取した曼陀羅草から抽出した高濃度のアルカロイド溶液だ。
彼らの体格に合わせて、希釈率はあらかじめ決めてある。
「致死量には届かない。
ぎりぎり、手前だがね」
瓶を、山人の胸元へ投げつけた。
砕けた瓶から飛んだ細かな飛沫が、吹き下ろす風に乗り、後ろの人間種の顔までまとめて流れていく。
「ぶっ……なんだ、水か?」
山人が顔を拭った。
毒だと気づくには、まだ早い。
この溶液に、筋を麻痺させる作用はない。
トロパン系アルカロイドが遮断するのは、副交感神経の受容体だ。
瞳孔は開き、汗腺は止まり、心拍は上がる。
粘膜からの吸収は速い。
致死量までには、まだ十分な余裕がある。
だが、余裕があるのは薬の側だけだ。
山人の剣は、私に余裕など与えてくれない。
三十秒ほどで、先に変化が出たのは人間種の男だった。
「……眩しい。くそ、目が……」
男が片手で顔を覆い、よろめいた。
散瞳した瞳孔は、朝日を絞りきれない。
光は洪水のように網膜へ流れ込み、近くのものは焦点を失って滲む。
声のする方向へ剣を向けようとしているが、切っ先は私とは見当違いの塀を叩いた。
「何してやがる、しっかりしろ!」
山人が怒鳴った。
だが、その声にも、わずかな掠れが混じり始めている。
口内の水分が奪われ始めたのだ。
黒い皮甲冑は、陽光を吸って熱を溜める。
本来なら、汗が体温を逃がす。
だが汗腺は、すでに沈黙している。
「熱い……なんだ、体が、妙に……」
山人の呼吸が荒くなり、握りしめた大剣の切っ先が、微かに震えた。
その瞬間だった。
山人が咆哮し、足を縫いとめていた樹液ごと、靴底を力任せに引き剥がした。
皮の裂ける音とともに、右足が前へ出る。
百キロの体重を乗せた踏み込みで、石段が鳴った。
視界が、山人の影で埋まった。
鎧の革が軋み、荒い呼気が顔にかかる。
三歩。
二歩。
頭上の大剣が、まっすぐ振り下ろされた。
私は背後へ跳んだ。切っ先が肩口を掠め、外套が裂ける。
視界の隅で、HPの表示が赤く点滅した。一撃で死ぬという数字の意味を、肌が理解する。
「ちっ……!」
石段に食い込んだ刃が、鈍い音を立てて引き抜かれる。
もし半歩遅れていれば、私はいま、復活拠点の天井を見上げていただろう。
山人は止まらず、次の構えに入った。
薬が回りきるまで、おそらくあと数分。
その数分を、私は一撃も受けずに過ごさなければならない。
右手が、試薬ポーチへ伸びた。
仕切りの奥にある、最後の遮光小瓶。胞子嚢の封を、指先が探り当てる。
「三手目だ。
……検証を続けよう」
眼鏡の鼻あてを押し上げ、私は山人の顔を正面から見据えた。
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