第18話「白百合の凋落」
病院から自室へ戻った私は、身体を休める間もなく『Neuro-Gear Enterprise Pro』を装着し、再びPANACEAへとダイブした。
妹の美緒に残された猶予は少ない。現実の臨床が限界を迎えている以上、この全分子シミュレーション世界で『劇薬を薬へ変える最適用量』の解を、一刻も早く完成させなければならないのだ。
石段の民区へ戻り、いつものように外縁部でのデータ計測と調合を進めていた私は、水汲みのために中央広場の手前まで差し掛かり、足を止めた。
かつての整然とした空気は消え去り、怒号と抗議の声が飛び交う混乱が広場を覆っていた。
「どういうことだ! 白百合様の傷癒水を三日も飲み続けているのに、妻の熱がちっとも下がらないぞ!」
「うちの息子もそうだ! 以前もらった薬なら一晩で効いたのに、最近配られているやつは、飲むと胃が痛むだけで傷口が塞がりもしない!」
「本当に安全な薬なのか!? 成分を薄めて数を誤魔化しているんじゃないのか!?」
白百合治療団が設置した臨時施薬所の前には、詰め寄る大勢の人間種や山人の住民、新規プレイヤーたちが群がり、怒りを露わにしていた。白地に銀の刺繍が入った装備を纏う隊員たちが、必死の面持ちで群衆を制止している。
「落ち着いてください! 当治療団の傷癒水は、厳格な標準マニュアル通りに調合された安全な薬です!」
「画一的な処方ルールに従って正しく服用してください! 改善が見られない場合は再度の診察を!」
悲鳴に近い隊員たちの制止。その施薬所の中央で、帳簿を握りしめた団長——レイが、青ざめた顔で報告に耳を傾けていた。
私は日陰の石垣に身を寄せ、その混乱を冷徹に観察した。
PANACEAの生態系演算エンジンは、ミクロなリアルタイム判定に加え、定期的なバッチ演算でエリア全体の土壌疲弊度と環境再生率を更新している。白百合治療団が配給実績の数を維持するため、近郊の草地で傷癒草を根こそぎ過剰採取し続けた結果、土壌パラメータは限界を超えて低下し、再生周期そのものが物理的に破綻していたのだ。
さらに、この世界にはアイテムの品質ランク(E〜S)が完成品の補正乗数に直接掛け合わされるという明確なゲーム仕様が存在する。
土壌疲弊によってリスポーンした「E(粗悪)」ランクの傷癒草は、有効成分の含有量が極小まで落ち込んでいる。どれほどレイが指導者として抽出温度や工程の管理基準を徹底させようとも、原材料がEランクである以上、完成した傷癒水の効果倍率は著しく低下する。
「有効成分濃度が低すぎれば、患者の受容体の作用閾値を突破できない。生体反応が起きない薬をどれだけ多量に飲ませたところで、治療効果が出ないのは当然の帰結だな」
白百合治療団は「効果が出ない」という住民の訴えに対し、配給量を増やして多量に飲ませることで対処しようとしていた。しかし、有効成分の絶対量が不足したまま多量に摂取させても、患者の器官に不必要な負担をかけるだけで生体反応は起きない。
「一律の処方という固定観念に固執するあまり、システム演算が生んだ自縄自縛に気付けないのは、実に非合理的だ」
ふと、群衆の押し合いの中で、レイが帳簿から目を上げた。
視線が混ざり合う。
人混みの遠く後方、日陰の中で静かに佇む私の姿を、レイの瞳が捉えた。
彼女の表情に、微かな動揺と隠しきれない焦燥が走る。現場のこの混乱ぶりから推測するに、システムが自動集計している白百合治療団の『NPC回復率』の数値は、すでに危険域まで下降しているのだろう。
白百合治療団が持つ社会的信用と公衆衛生の管理権限。それがどれほど強大であろうと、数値と生体反応の真実を誤魔化すことはできない。
私はレイから静かに視線を外し、施薬所に背を向けた。
試薬ポーチの中には、以前豊穣組合の畑から購入した「Aランク(極上)」の深根性傷癒草と、それを用いてさらに吸収緩和効率を高めた『静心散』が収められている。
「無毒至上主義が掲げた安全神話は、すでに破綻し始めているな。規格化された標準薬では救えない患者が現れた時、私がいずれ提示する個別の用量理論を試す機会が訪れるはずだ」
不満を募らせる群衆の声を背に受けながら、私は歩みを速めた。
「立ち止まっている時間はない。……まずは手に入れたAランク素材の解析と、処方の再設計に取りかかるとしよう」
私は迷いなく脚を早め、静まり返ったタリサの家へと急いだ。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
[EVT_TRACE::SESSION_02_STANDARDIZATION_FAIL]
├─ RE_DIVE_SUCCESS :: NODE_UID_882109-DOSE :: VITAL_SYNC_OK
│ └─ LOCATION: HOUSING_ID_ISHIDAN_OUTER_12 [TALISA_HOUSE]
├─ AREA_DISTURBANCE:: ZONE_MEBIUS_L1_SQUARE [SQUARE_PANIC_EVENT]
│ ├─ POPULATION_CLUSTER: CITIZEN_NPCS (HUMAN / YAMABITO)
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│ └─ SYSTEM_METRIC : LILY_RECOVERY_RATE_SCORE = 18.2% (CRITICAL_LOW)
├─ X_OBSERVATION :: AGENT_NPC_RAY (HUMAN) <---> ENTITY_882109-DOSE (HUMAN)
│ └─ COGNITIVE_STATE: SYSTEM_LIMIT_ANXIETY_DETECTED
└─ ARCHIVE_UPDATE :: FORMULA_RESERVE [A_RANK_TERRA_VEG_HYBRID]
└─ SYSTEM_RECORD -> [INTERNAL_LEARNING_LOG_ID-8855]




