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第17話「残された可能性」

 視界を満たしていたタリサの家の暗がりが収縮し、網膜のシステム画面が静かに消灯した。


 頭部を覆うフルダイブギア『Neuro-Gear Enterprise Pro』を外すと、自室の冷え切った空気が顔面に触れた。


 PANACEAには時間加速の機能が存在せず、ゲーム内の1時間は現実の1時間と完全に等倍で進行する。さらに、長時間の横臥による脱水や循環障害を防ぐため、生体モニタリングが危険値を検知すると強制ログアウトが発動する上限仕様が定められていた。1回につき最大12時間。私は毎日その安全限界ギリギリまでダイブを繰り返し、最小限の食事と睡眠で現実の肉体を繋ぎ留める持久戦を続けていた。


 デスクの上のゼリー飲料を素早く腹に収め、私はコートを羽織ってアパートを出た。


 美緒が倒れてこの病院へ緊急搬送されてから、一ヶ月余りの時が流れている。夜の街を速足で駆け抜け、大学病院の高度治療病床へ足を踏み入れた。


 個室のドアを開けた瞬間、電子アラートの不規則な高鳴りが耳を突いた。


 点滴ポンプの警告音。ベッドの周囲には生体モニターが明滅し、酸素マスクを装着した美緒が、肩を大きく上下させて浅い喘鳴を繰り返していた。


「……九条くん」


 モニターの数値を記録していた主治医の教授が、重い表情で私に振り返った。


「ステロイドを減らした直後から、予想以上のリバウンドが始まった。三十九度近い高熱が出ており、炎症性サイトカインの血中濃度も危険域へ跳ね上がっている。……既存の免疫抑制剤では、これ以上の増量は多器官不全を招く。現状、有効な治療域(テラピューティック・ウィンドウ)が完全に消失している」


「増量が不可能な理由は理解しています。数値を直接確認させてください」


 私はパイプ椅子を引き寄せる余裕すらなく、ベッド脇の電子カルテ画面へ顔を近づけた。


 最新の採血データが表示されている。血小板数の低下、高止まりしていたIL-6の不規則な再スパイク、CRPの上昇。美緒の生体モデルにおいて、免疫応答の制御閾値が崩壊を起こし、自己の血管内皮細胞を無差別に攻撃し始めている。


「お……にい……ちゃん……」


 酸素マスクの内側が真っ白に曇り、美緒がうわ言のように小さく声を漏らした。


「ごめん、ね……。私……苦しくて……。お兄ちゃんの……研究も……私のせいで……」


 細く乾いた指先が、シーツの上で力なく彷徨う。


 私は彼女の冷え切った指先を静かに握り直した。手首から伝わる脈拍は毎分130を超え、末梢の循環不全を示す微かな冷感が皮膚を刺す。


「謝罪は不要だ。呼吸を乱せば酸素消費量が増え、心負荷が増大するだけだ」


 私は声を抑え、彼女の目を見つめた。


「君の体内で起きているのは、魔法や呪いのような不可解な現象ではない。免疫受容体が過剰に反応を起こしている、純粋な物理・化学反応だ。原因が存在する以上、それを制御する解は必ず存在する」


「でも……私……もう……」


「私は、不完全な答えを君に示すつもりはない。PANACEAの全分子シミュレーション環境において、過剰な生体応答を安全域内で抑え込む個別化用量の数式は、確実に形になりつつある。君が諦める根拠は、どこにも存在しない」


 美緒の瞼が重そうに揺れ、荒い呼吸のまま静かに瞳が閉じられた。


 主治医の教授が、胸の痛むような視線を私に向け、低く囁いた。


「気持ちは分かるが……現実の臨床では、もう猶予がない。今週末までに炎症が落ちなければ、人工呼吸器の管理レベルを上げざるを得ない。覚悟だけはしておいてくれ」


「客観的な事実としての忠告、受け取りました。ですが、私は最後まで計算を止めません」


 教授に深々と一礼し、私は病室を後にした。


 病院の階段を下りながら、私は手帳を取り出し、電子カルテで得た美緒の最新のサイトカイン推移と体液量の補正値を素早く書き込んだ。


 現実の医学が「安全域の狭さ」と「画一的な標準薬の限界」によって手をこまねいている間にも、美緒の命は刻一刻と削られている。彼女を救う唯一の道は、PANACEAの全分子エンジンを使い倒し、劇薬の毒性を完璧に手なずける『最適用量の解』を完成させることだ。


 病院を出ると、冷たい雨が夜の舗装路を濡らしていた。


 白百合治療団の無計画な過剰採取によって、街の標準薬の品質は暴落し始めている。画一的な安全神話の限界が明らかになった時こそ、私が提示する『用量制御による個別化医療』の正当性を証明する機会となるだろう。


「タイムリミットは近い。……美緒を救うためにも、一刻も早く次の生体実験へ移行するとしよう」


 雨を突いて自宅へと急ぎ、私は再びあの広大な分子シミュレーション世界へと意識を投じるべく、歩みを速めた。

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