第16話「品質の暴落」
数日前、施薬所の裏手で目撃した傷癒草の黄ばみと細さは、一過性の現象ではなかった。
数日が経過した石段の民区では、白百合治療団が配る傷癒水に対する住民たちの小さな不審感が、波紋のように広がり始めていた。
「白百合様の傷癒水を飲んだんだが、どうも前より効き目が薄い気がするんだ……」
「そう言えば、うちの旦那の傷口もなかなか塞がらなくてね。以前なら二日も飲めば痛みが引いたのに……」
通りを歩けば、そんな囁き声がそこかしこから聞こえてくる。
私は日陰の石畳の脇にしゃがみ込み、露出した土壌の水分量と微細な変色を観察しながら、PANACEAの生態系演算エンジンが持つ仕様について思考を巡らせていた。
PANACEAのシミュレーション環境では、植物が周囲の土壌演算値を保持しており、連続した過剰採取は土壌パラメータそのものを物理的に低下させる。白百合治療団が『民区衛生対策』の配給数を維持するため、近郊の草地で傷癒草を大量採取し、さらに市場でも買い集め続けた結果、土壌の栄養塩と生態演算値が著しく疲弊していたのだ。
過剰採取によって土壌パラメータが低下すれば、そこにリスポーンする植物の品質ランクは「A」や「B」から、「D」や「E」へと落ち込む。品質ランクの低い薬草は有効成分量が減少しており、どれほど正確に抽出を行っても、調合された傷癒水の回復効果は必然的に低下するのだ。
「標準化された安全を維持するために無計画な過剰採取を重ね、その結果として原材料の品質を失う。……システム側の物理演算が生んだ、皮肉な自縄自縛だな」
白百合治療団は「NPC回復率」の数値を維持するため、効果の薄れた傷癒水をさらに増産して配り続けているようだが、原因である土壌疲弊を無視している以上、事態の好転はあり得ない。
私は立ち上がり、補給用のガラス試薬小瓶を調達するため、広場の外縁に露店を並べる小さな交易所へと向かった。
露店通りを歩いていると、古びた木箱に薬草を並べていた、寒暖差への耐性を備えた荒人の行商人の男が、私に気付いて手招きをしてきた。
「おい、そこの薬草採取人の旦那。……あんた、素材の『質』が見える口だろ?」
「問いの意図が曖昧だな。何か私に見せたいものでもあるのかね?」
「白百合の連中が近場の傷癒草を根こそぎ買い叩いて枯らしちまったせいで、市場に出回ってるのはスカスカの粗悪品ばかりだ。だがな……さっき他領域から届いたばかりの、これを見てくれ」
行商人が周りを気にするように声を潜め、木箱の蓋を少しだけずらした。
そこに収められていたのは、暗緑色の瑞々しい葉をたくわえた一束の薬用植物だった。
私は革手袋をはめた指先でその葉に触れ、目を凝らした。
しっとりとした深い黒土の質感、厚みのある葉肉、そして密な毛状突起。
「ほう……なるほど。根の周囲に付着した土壌菌の代謝物が異常なほど活性化している。過酷な水分制限によって環境ストレスを与えつつ、根圏の微生物叢を意図的にコントロールして育て上げられた結果だな」
試薬ポーチから簡易鑑定ツールを取り出し、かざしてみる。
[名称:深根性傷癒草]
[品質ランク:A(極上)]
[原産地:豊穣組合・石段の斜層]
「『A』ランクの極上個体か。渡来の岸や石段の民区で自生している個体群とは、比較にならない純度だな」
PANACEAの経済システムは完全な需要供給制であり、四つの専門組合が扱う特産品は、広域オークションを通じてメビウスの市場へリアルタイムで流通してくる。
「へへ……流石だな、旦那。豊穣組合の畑で『逆境でしか育たない成分がある』とか言ってる、変わり者の農家から仕入れた逸品さ。白百合の連中にも持ち込んだんだが、『土壌菌の付着が不衛生だ』『基準外の栽培法だ』とか言って一蹴されちまってな」
「標準化の枠に固執するあまり、極上の生体データを自ら切り捨てたわけか」
私は提示された額——一般的な傷癒草の市場価格の三倍にあたる120クレジットを惜しげもなく支払い、木箱の薬草を買い取った。
「毎度あり! その農家の名前までは知らないが、豊穣組合の農家たちの間じゃかなりの腕利きらしいぜ」
買い取った薬草の根に付着した黒土の匂いを嗅ぎながら、私は静かに思考を巡らせた。
条件の閾値を操作し、植物生理学における防御応答を完璧に制御する農家。顔を合わせることはなくとも、その圧倒的な栽培精度は、手元にある一束の薬草が雄弁に物語っていた。このレベルの共生菌活性があれば、私の『静心散』の吸収緩和効率をさらに一段向上させられる可能性があるな。
タリサの家への帰り道、中央広場の方角を見やると、白百合治療団の施薬所には、相変わらず長い列ができていた。
安全という名の思考停止と乱獲による土壌疲弊が、確実にこの街の治療基盤を蝕んでいる。
「大衆を包み込んできた無毒至上主義の安全神話……その崩壊の兆候は、すでに観測され始めているな。この農家が生み出す高品質な素材ルートも含め、今後の動向を追う価値は十分にありそうだ」
私は極上の薬草を試薬袋へ丁寧に収め、静まり返ったタリサの家へと脚を早めた。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
[EVT_TRACE::SESSION_02_QUALITY_DECAY]
├─ ENV_EVAL_EXHAUST :: ZONE_MEBIUS_L1_HARVEST :: OVER_HARVEST_CRITICAL
│ ├─ SOIL_NUTRIENT_LEVEL: 15.8% (RESPAWN_RANK_E_FIXED)
│ └─ HEALING_WATER_DECAY : EFFECT_MULTIPLIER = 0.35x
├─ MARKET_TRADE :: NODE_EXCHANGE_OUTER :: ITEM_PURCHASE_SUCCESS
│ ├─ SELLER_AGENT : AGENT_NPC_MERCHANT (RACE: ARABITO)
│ ├─ BUYER_ENTITY : ENTITY_882109-DOSE (RACE: HUMAN)
│ ├─ ITEM_ACQUIRED: [FUKANE_KIZUKUSOU] (RANK_A / ORIGIN: HOJO_GUILD)
│ └─ PRICE_PAYMENT: 120_CREDIT (300%_MARKET_AVERAGE)
├─ CROSS_DOMAIN_PAR:: HOJO_GUILD_CULTIVATION_ANALYZED (NODE_UID_6021_SOTA)
│ ├─ BIOLOGICAL_MECH: WATER_RESTRICTION -> RHIZOSPHERE_FLORA_UP
│ └─ DOSE_FORMULA : SEISHINSAN_BUFFER_EFFICIENCY_UP (+12.4%)
└─ SYSTEM_WARN_LOG :: PUBLIC_HEALTH_RECOVERY_RATE_COLLAPSE_PREDICTED
└─ RECORD_UPDATE -> [INTERNAL_LEARNING_LOG_ID-8850]




