第15話「広がらない噂」
石切職人の救命以降、私はタリサの家での問診プロトコルへ新たな変数を組み込んでいた。
体格や年齢といった固定パラメータに加え、直近の労働環境、発汗の有無、水分摂取量。これらをミリグラム単位の用量計算へ反映させることで、脱水による『見かけの分布容積(Vd)』の変動を完全に制御するためだ。
作業台には、患者ごとに最適化された処方ログを記した手帳が、何冊も並ぶようになっていた。
ギシ……と扉が開き、風に肩をすぼめた、人間種の初老の女性が入ってきた。
「あの……ここが、噂の薬草採取人の先生のところかい? 隣のタリサさんから聞いてね……」
PANACEAのNPC群には、単なる固定の会話イベントだけでなく、体験した生体反応の満足度や回復実績が、周辺のNPCコミュニティへ伝播する『評判・伝聞エンジン』が実装されている。白百合治療団の標準薬で改善しなかった住民が、救われた患者の口コミを通じて、この外縁の隠れ家へ密かに辿り着くのはシステム上の合理的な帰結だった。
「問診を行う。症状と既往歴を述べたまえ」
私は彼女を木箱へ座らせ、手首の脈拍と皮膚の乾燥度を計測し始めた。
「膝と腰の関節が痛くて眠れなくてね……白百合の施薬所で傷癒水を何度ももらったんだが、胃が重くなるばかりで痛みがさっぱり引かないんだ」
「なるほど。局所の慢性炎症による痛覚閾値の上昇だな。皮膚組織の修復を目的とする傷癒水では、受容体の過剰な応答を抑えることはできない」
私は彼女の体重と血圧から用量を弾き出し、和紙から取り出した『静心散』をごく少量の水とともに処方した。
三十分後、膝を摩りながら立ち上がった女性の表情には、明らかな驚きと安らぎが浮かんでいた。
「あんなに痛かったのが、嘘みたいにじんわり和らいでいくよ……! ありがとう、先生!」
「感謝は不要だ。私は臨床データを収集したに過ぎない。予備の一包を渡しておくが、痛みが再発した場合にのみ服用しなさい」
彼女は何度も深く頭を下げ、大事そうに和紙の包みを握りしめて住居を去っていった。
しかし——このような感謝の輪が、石段の民区全体へと広がる気配は全く存在しなかった。
水汲みのために中央エリアの外縁まで足を運ぶと、白百合治療団が設置した巨大な施薬所には、相変わらず無数の住民や新規プレイヤーが群がっていた。
「白百合治療団の傷癒水です! 安全性が保証された正しい薬だけを使いましょう!」
「外縁部で毒草を密売している危険な薬草採取人に騙されないでください! 未検証の薬は体を壊します!」
白百合治療団の隊員たちが張り上げる声。白百合治療団のような大型NPC勢力は、地域全体の公衆衛生を管轄し、住民への広報や危険物の警戒判定を行う権限(『広報・警戒フラグ』)を保持している。彼女たちが「未承認の危険調合物」として私に対する警戒を呼びかけ続けているため、白百合治療団が持つ社会的信用が、システム上でも強く反映されていた。
大多数の住民は「毒草を使う危険人物」として私を忌避し、白百合の配る傷癒水へ群がり続けている。私の元を訪れるのは、白百合の薬では改善に至らず、標準治療の枠から溢れ落ちたごく少数の患者のみだった。
水筒に水を汲み終えて立ち去ろうとした私へ、後ろから声をかける者がいた。以前処方を行った山人の石切職人の男だった。
「先生……白百合の連中、相変わらず酷い噂を流しているらしい。先生が命を救ってくれたって俺がいくら説明しても、周りの奴らは『毒で頭がおかしくなったんだ』って取り合わないんだ。……悔しくないのかい?」
男は拳を握りしめ、憤りを隠せない様子で私を見つめていた。
「悔しがる理由がどこにあるのかね?」
私は水筒の栓を閉め、静かに問い返した。
「私には、大衆からの評価や名声など1ミリも必要ない。仮に白百合治療団の誤った広報によって大衆がこの住居へ押し寄せたとしても、一人当たりの問診と体組成の計測時間が削られ、生体データの精度が著しく低下するだけだ」
「え……?」
「現在のように、一日数例のペースで極限の個体差と臨床反応を観測できる環境こそ、私にとっては最も効率的で好都合なのだよ」
男は呆気にとられたように目を丸くし、それから苦笑いを漏らした。
「先生は……本当に変わった人だな」
「事実を述べているだけだ。……私は戻る」
男と別れ、坂道を数歩上りかけたところで、施薬所の裏手にある搬入口へ立ち止まった荷馬車が視界に入った。白百合の調合班へ運び込まれていく大量の傷癒草の束。
私の目は、その植物組織の僅かな変化を見逃さなかった。
葉の色は浅く黄ばみ、茎の太さは以前観察したものより二割近く細い。連日の大量採取による土壌の栄養枯渇、ならびに未成熟個体の乱獲が引き起こしている生理的なストレスの徴候。
「なるほど……傷癒水が配られる量とは裏腹に、原材料の品質は急激に落ち込んでいるな」
白百合治療団が配る「絶対の安全」という名の標準薬。それが軽症者の症状を一時的に抑えるだけで、根本的な不調を抱える患者を切り捨てている事実は、私の手帳に蓄積された症例数(N)の増加とともに、より鮮明な数式となって浮かび上がりつつあった。
標準薬の限界と、個別化用量の正当性は、症例が増えるほど明確になる。噂が広がらないのは結構なことだ。だが、画一的な標準化の限界に直面した生体が、いずれこの外縁を訪れる日はそう遠くない。
私は試薬ポーチの感触を確かめ、静まり返ったタリサの家へと脚を早めた。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
[EVT_TRACE::SESSION_02_RUMOR_ENGINE]
├─ HOUSING_NODE :: HOUSING_ID_ISHIDAN_OUTER_12 [TALISA_HOUSE]
│ └─ PATIENT_VISIT: AGENT_NPC_RESIDENT_88 (RACE: HUMAN)
├─ RUMOR_PROPAGAT:: PROPAGATION_EVENT_DETECTED (SOURCE: TALISA & MASON_04)
│ └─ LOCAL_WORD_OF_MOUTH_ACTIVE (OUTER_SECTOR_ONLY)
├─ CLINICAL_EXEC :: ITEM_PROTOTYPE_SEISHINSAN_CUSTOM_V2
│ ├─ DIAGNOSIS : CHRONIC_JOINT_INFLAMMATION (HIGH_PAIN_THRESHOLD)
│ └─ RESULT : PAIN_SIGNAL_SUPPRESSED (N_ACCUMULATED = 18)
├─ PUBLIC_TRUST :: LILY_WARNING_FLAG_ACTIVE (SOCIAL_TRUST_SHARE: LILY_91.6% vs DOSE_8.4%)
└─ HARVEST_MONITOR:: CENTRAL_HARVEST_ZONE_DECAY_DETECTION
├─ SOIL_NUTRIENT_SALT: 15.8% (CRITICAL_EXHAUSTION)
└─ RESPAWN_QUALITY : KIZUKUSOU_RAW -> RANK_E_TREND_CONFIRMED




