第14話「見誤った用量」
タリサの症例以降、人通りの絶えた石段の民区外縁にあるタリサから借り受けた外縁部の小さな家へ、白百合治療団の標準薬で改善しなかった住民が、密かに足を運ぶようになっていた。
作業台の上で和紙の包みを折りたたみながら、私はPANACEAの根幹をなす生体シミュレーションエンジンの仕様について思考を巡らせていた。
一般的なVRRPGであれば、プレイヤーやNPCの身体状態は「HP」や「毒デバフ」といった単層的な数値で処理される。
しかし、全分子演算を行うこの世界では異なる。
画面には表示されない『不可視の生体ステータス』
——すなわち血液濃度、肝臓の代謝酵素活性、腎排泄率、そして受容体の感受性が、実際の人間と同等の解像度で常時変動しているのだ。
だからこそ、同じ『静心散』であっても、患者の推定体重、体液量、現在の代謝率を正確に計測し、ミリグラム単位で用量を書き換えなければならない。
その時、ギシ……と古い鉄のドアが開いた。
入ってきたのは、大柄で頑丈な骨格を持つ山人の中年男性だった。
腕には石切り職人特有の分厚い蛸があり、肩を竦めて喘ぐように立っている。
「噂を聞いて来た……。
白百合の傷癒水じゃ、この右肩から首にかけての激しい神経痛が全くひかないんだ。
頼む、薬をくれ……」
「問診を行う。服薬歴と現在の症状を述べたまえ」
私は男性を作業台脇の木箱へ座らせ、触診を開始した。
手首の脈拍、皮膚の弾力、体格。体重は推定85キログラム。
頑丈な骨格と大きな体躯は、薬品が体内で行き渡る
『見かけの分布容積(Vd)』が通常モデルより極めて大きいことを示している。
「なるほど。体格が大きく分布容積が広いため、白百合の過剰に希釈された標準薬では、有効成分の血中濃度が痛覚受容体の作用閾値にまるで達していないわけだ」
私は遮光木箱から『静心散』を取り出し、天秤の皿に乗せた。
彼の大きな分布容積を補正するため、私は手元の粉末へ、少量の曼陀羅草抽出物を追加した。
タリサに処方した用量の約1.5倍。彼の体格であれば、この増量を行っても血中濃度は十分に安全域内に収まるはずだった。
「この粉末をごく少量の水で飲み下したまえ」
男性は差し出された薬を即座に飲み干した。
私は手帳を開き、経過観察に入った。
しかし——十五分が経過した頃、想定とは明確に異なる生体反応が男性の身体に現れ始めた。
「う……ぐ……っ!
喉が……やけに渇く……!
光が……眩しすぎて、目が開けていられない……!」
男性が両手で顔を覆い、荒い息を吐きながら木箱の上で激しくよろめいた。
私は即座に立ち上がり、彼の顔を覗き込んだ。
瞳孔が過剰に開いている。
対光反射の完全な消失。
手首に触れると、脈拍は毎分120を超える急激な頻脈を示し、皮膚は異常な乾燥を示して汗はほとんど消失していた。
「散瞳、激しい口渇、無汗、著しい頻脈……!
曼陀羅草のトロパン系アルカロイドによる、典型的な抗コリン中毒症状か……!?」
計算は完璧だったはずだ。なぜ用量が安全域を突き抜け、中毒域へと達したのか。
私は手帳の計算式を視線で高速になぞりながら、彼の腕の皮膚組織と呼吸音を再観察した。
そこで私は、自らの重大な見落としに気付いた。
彼の皮膚の表面に薄く浮き出た微細な塩分の結晶、そして筋肉組織の収縮。
彼は石切場で重労働を行い、著しい脱水状態に陥っていたのだ。
体内水分の極端な低下により、実際の分布容積が想定を大きく下回り、血中有効成分濃度がスパイクを起こして致死域の手前まで跳ね上がっていた。
「私の見誤りだ……!
体格という固定パラメータに囚われ、脱水による分布容積のリアルタイム縮小という変数を計算から脱落させていた……!」
冷や汗が背筋を伝う。
PANACEAにおける劇薬の誤投与は、一般的なゲームのような一時的なデバフでは済まない。
致死量を超えれば、生体演算エンジンは呼吸筋の麻痺と心停止を直接引き起こす。
さらに、NPCが死亡すれば再生成されず、世界から永久に消滅する仕様だ。
放置すれば、数分以内に彼の呼吸は停止する。
「パニックになるな。
生体反応は化学方程式だ。
抑制された受容体系のバランスを回復させればいい……!」
一般的なゲームのような「状態異常解除ポーション」など存在しない。
必要なのは、副交感神経系を強力に刺激し、抗コリン状態を打開する拮抗物質の緊急投与だ。
劇薬を取り扱う以上、不慮の過剰反応や誤投与に備えたリスク管理は必須の義務だ。
私は渡来の岸で採取しておいた『接骨草』から、コリン作動性成分を持つ濃縮抽出液をあらかじめ調製し、試薬棚に常備していた。
私は即座に試薬棚へ飛びつき、保管しておいた接骨草の濃縮抽出液の瓶をひったくった。
接骨草に含まれるコリン作動性成分が副交感神経系に働きかけ、トロパン系アルカロイドによって遮断された受容体系のバランスを急速に回復させていく。
「これを飲め! 早く!」
私はよろめく男性の顎を掴み、接骨草の抽出液を喉へ直接流し込んだ。
分子レベルでの受容体機能の回復。
生体シミュレーションエンジンが、二つの作用物質の濃度比率をリアルタイムで演算していく。
息を詰めて見守ること、五分。
男性の開ききっていた瞳孔が、微かに収縮を始めた。
過剰な頻脈が落ち着きを極め、皮膚にじわりと微かな汗が戻り始める。
「はぁ……っ!
はぁ……っ!
あ、足の震えが……
収まってきた……」
男性が胸を摩り下ろし、荒い呼吸を整えていく。
呼吸停止の閾値手前で、生体反応は辛うじて正常域へと引き戻された。
視界の端で、赤く明滅するアラートウィンドウが立ち上がった。
[緊急解析ログ:投与薬剤の毒性域到達を検知。
コリン作動性アゴニストによる競合的中和処置の成功を確認。
対象NPCの生命維持に成功。
臨床誤投与・緊急回避データとして記録します]
警告画面を消去し、私は膝の微かな震えを抑えながら、作業台に手をついた。
「一歩間違えれば、私は患者を救うどころか、自らの計算ミスで命を奪うところだった……」
手元に残された『静心散』の紙包みを見つめる。
毒と薬を分けるのは用量だ。
だが、その用量を決定する生体パラメータは、患者の生活環境や一瞬の水分量によって容易に変動する。
「知識を持つだけでは足りない。
生体のあらゆる変数をミリグラム単位で制御し続けなければ……
私は薬師ではなく、ただの危険な毒物使いになる」
私は試薬ポーチへ静かに手を添え、二度と計算の誤差を出さないことを自らの臨床判断の教訓として深く刻み込んだ。
完全に持ち直した男性は、深々と何度も頭を下げ、夜の闇が残る路地へと去っていった。
彼が外縁部で体験したこの『劇的な救命』の噂を他人にどう語るかは分からない。
尾ひれのついた情報が、やがて白百合治療団の耳へと届くのも、時間の問題だろう。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
[EVT_TRACE::SESSION_02_CLINICAL_ERROR]
├─ HOUSING_NODE :: HOUSING_ID_ISHIDAN_OUTER_12 [TALISA_HOUSE]
│ └─ PATIENT_VISIT: AGENT_NPC_MASON_04 (RACE: YAMABITO / 85kg)
├─ DOSAGE_EXEC :: ITEM_PROTOTYPE_SEISHINSAN_1.5X (Vd_EXPAND_COMPENSATE)
├─ VITAL_ALERT :: TOXIC_RANGE_REACHED (ANTICHOLINERGIC_OVERDOSE)
│ ├─ DIAGNOSIS: REALTIME_Vd_SHRINKAGE BY SEVERE_WORK_DEHYDRATION
│ └─ SYMPTOMS : MYDRIASIS / XEROSTOMIA / ANHIDROSIS / TACHYCARDIA_122bpm
├─ EMERGENCY_ACT :: CHOLINERGIC_AGONIST_INJECTION [SEKKOTSUSOU_EXTRACT_CONC]
│ └─ MECHANISM: RECEPTOR_BINDING_COMPETITIVE_DISPLACEMENT
├─ BIO_SIM_TRACE :: TOXICITY_NEUTRALIZED :: PULSE_74bpm (RESPIRATORY_ARREST_PREVENTED)
│ └─ LIFE_PRESERVE: AGENT_NPC_MASON_04 (RE-SPAWN_FAIL_AVOIDED)
└─ RUMOR_SIGNAL :: RUMOR_PROPAGATION_QUEUE_TRIGGERED
└─ PAYLOAD: "OUTER_DOCTOR_SAVED_CRITICAL_PATIENT" -> LOG_ID-8840




