第13話「合理的な報酬」
戸口に立ち尽くす彼女の背後で、月光が冷たく揺れていた。
浅く鋭い呼吸。肩が不規則に上下し、胸を強く押さえたまま、彼女はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
その瞬間、私の視界の端で淡く点滅していた透過ウィンドウが、明確なシステム音とともにポップアップ表示された。
『緊急救済依頼[路傍の救助]が発生しました』
『依頼主:タリサ(人間種/ラティフェル出身住民)』
『概要:急性生体不調に苦しむNPCの保護および症状改善』
『達成報酬:[タリサ宅の一時居住権能](安全ログアウトゾーン保護/簡易作業スペース利用権)』
「なるほど。
これが都市の公的施設を追われ、拠点を失った不遇プレイヤーに対するシステム側の救済メカニズムか」
拠点を持たないプレイヤー向けの救済機構。
困窮NPCを救えば、その住居をセーフハウスとして共有利用できるらしい。
そこではセーフティゾーンと同等の防犯補正が働き、安全なログアウトと作業が保証されるようだ。
「立つのを無理に試みる必要はない。
呼吸のテンポを落とし、ゆっくりと息を吐き出しなさい」
私が静かに声をかけると、彼女
——人間種の女性は薄っすらと目を開け、切れ切れの声で訴えかけてきた。
「あ……あなた、が……噂の薬草採取人……?
お願い……助けて……」
「問診を行う。
症状と、ここへ至った経緯を述べたまえ」
私は彼女の正面に屈み込み、手首の脈拍、瞳孔の対光反射、皮膚の乾燥度を素早く観察した。
「数日前から……
胸が締め付けられるように痛くて、頭の奥が重く圧迫されるの……。
白百合治療団の施薬所で配られていた傷癒水を何瓶も飲んだわ……でも、一向に良くならなくて……。
団員の人に言ったら
『規定通り飲めば治るはずだ』
『治らないのはあなたの気の持ちようだ』って追い返されて……」
涙を浮かべて途切れ途切れに語る言葉を聞きながら、私は彼女の細い手首に触れた皮膚の感触と脈拍のトーンを脳内でデータ化した。
「原因の見当はついた」
私は彼女の肩を支え、作業台の脇に置いた木箱へと腰掛けさせた。
「手首に触れた皮膚の弾力と、脈拍の緩やかな沈み方……
体内水分保持能力が高く、水溶性成分が体液中へ広く分散しやすいため、結果として見かけの分布容積(Vd)が通常モデルより大きくなっている。
体液によって成分が希釈されやすい生体反応を示している。
白百合治療団が配る過剰に安全域を広げた希釈傷癒水では、有効成分の血中濃度が受容体の作用閾値を下回っていたわけだ」
「え……?」
「閾値に届かない薬をどれほど多量に摂取しても生体反応は起きない。
それどころか、過剰な水分と共存成分の摂取で胃粘膜が刺激され、自律神経の不調を助長していたわけだ」
私は試薬ポーチから、手動調合で精製しておいた『静心散』の和紙包みを一つ取り出した。
彼女の小柄な体格と、体内水分の保持傾向から弾き出した有効域の推測値を掛け合わせ、手元の真鍮天秤で粉末の量を数ミリグラム単位で削り落とし、再調整する。
「この粉末を、ごく少量の水で飲み下したまえ」
「これは……?」
「曼陀羅草と心葉草を精密に調合した鎮静薬だ。白百合の標準薬では届かない君の受容体の閾値に対し、過不足のない最小有効量を直接作用させる」
彼女は差し出された和紙の包みを震える手で受け取り、水筒から注いだごく少量の水で慎重に飲み下した。
私は手帳を開き、彼女の正面に腰を下ろして経過観察を開始した。
二十分ほどが経過した頃。
心葉草の多糖類が胃粘膜を保護し、曼陀羅草のトロパン系アルカロイドが緩やかに血中へ移行していく。彼女の浅く荒かった胸の上下が、徐々に深く静かな呼吸へと変化していった。
「あ……」
彼女が自分の胸に手をあて、驚いたように目を見開いた。
「胸の……
締め付けが、消えていく……。
あんなに重かった頭の圧迫感が……
すっと引いていく……」
肌に差していた青ざめた顔色が消え、目元に確かな生気が戻っていく。
「中枢神経系の過剰な励起が抑制され、自律神経のトーンが正常域へ戻った証拠だ。過剰な抗コリン作用を示す激しい口渇や散瞳、異常な脈拍上昇といった副作用は観察されないな」
「すごい……!
あんなに何日も苦しかったのに、こんなに軽くなるなんて……!
私、タリサっていうの。ラティフェルからこの街に来たばかりで……
本当に、ありがとう……!」
視界に明るいシステム通知が立ち上がった。
『緊急救済依頼[路傍の救助]を達成しました』
『報酬:[タリサの家・居住権能]を獲得しました』
『※該当エリアはセーフティゾーンとして保護され、安全なログアウトおよび調合作業が可能です』
タリサは立ち上がり、深々と頭を下げた後、私をまっすぐに見つめた。
「あの……
私、この近くに小さな家があるの!
もしよかったら、あそこを使って!
いつでも寝泊まりしていいし、調合の場所にしても構わないから!」
「感謝は不要だ。私は仮説に基づき、君の代謝特性に合わせた用量を計算・投与し、セーフハウスの利用権限を得たに過ぎない」
私は淡々と手帳に投薬後のバイタルデータを書き込み、
手元に残った『静心散』の紙包みをもう一包、彼女へ差し出した。
「明晩、万が一不調が再発した場合にのみ服用しなさい。
連続投与は蓄積性のリスクを生む。
……これで物理的な防犯工作にリソースを割く必要がなくなった。
実に合理的な報酬だ」
タリサは包みを受け取ると、涙の浮かぶ目で小さく、けれど温かい笑みを浮かべた。
「うん!
じゃあ、私の家へ案内するわね!」
タリサの案内に導かれ、私は廃屋を後にした。
路地を巡回していた白百合治療団の隊員が、先ほどまで足をもつれさせていたタリサが足取り軽く私を案内していく姿を、怪訝そうに見送っているのが見えた。
「最初の症例としては、悪くない。
……この症例が白百合治療団の監視網へ到達するのも、時間の問題だな」
夜風が吹き抜ける街並みの中、私は新たな拠点
——安全な居住・調合スペースとなるタリサの家へ向けて足を進めた。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_IMMUNE]
[EVT_TRACE::SESSION_02_RELIEF_QUEST]
├─ QUEST_TRIGGER :: RELIEF_QUEST [ROADSIDE_RESCUE] -> AGENT_NPC_TALISA (RACE: HUMAN)
├─ CLINICAL_DIAG :: HIGH_FLUID_RETENTION / EXPANDED_Vd -> LILY_MEDICINE_BELOW_THRESHOLD
├─ DOSAGE_EXEC :: ITEM_PROTOTYPE_SEISHINSAN (MIN_EFFECTIVE_CUSTOM)
├─ BIO_SIM_TRACE :: T+20min :: BLOOD_LEVEL_MATCH / PARASYMPATHETIC_SHIFT_OK
├─ QUEST_CLEAR :: ID_Q_EMERGENCY_01 -> SUCCESS
│ ├─ SAFE_HOUSE_GRANT: [TALISA_HOUSE] (LOGOUT_PROTECTION=100%)
│ └─ TRUST_SCORE: HIGH (AGENT_NPC_TALISA)
└─ PATROL_OBSERVE:: PATROL_GUARD (LILY_HEALERS) -> "PATIENT_RECOVERY_WITNESSED"




