第五十一話 剣聖エリシア、王立学院で「今日は一つだけ直します」と宣言する
教師交換制度の申請書を見た翌朝、俺は剣聖エリシアを学院長室へ呼んだ。
机の上には、昨日提出された申請書が置いてある。交換希望先は王立中央学院。希望理由は『普通の生徒に剣を教えてみたい』と、彼女らしい簡潔な一文だけだった。
「確認するけど、本当に王立中央学院でいいんだな?」
俺が尋ねると、エリシアはいつものように背筋を伸ばしたまま頷いた。
「はい。先生から最初に教師試験を受けた時、私はセシリアへ細かく教えすぎました。その後も教師課程で改善してきたつもりですが、エルガ学院の生徒たちは私が教師見習いだと知っていますし、困った時には先生や他の教師へ相談できます。何も知らない生徒を相手にして、自分がどこまでできるようになったのか確かめたいんです」
言っていることはまともだった。
問題は、相手が剣聖エリシアだということだ。
本人は普通に剣を教えるつもりでも、世界中の剣士から見れば、エリシアが一度剣を振るだけで教材になる。王立中央学院側も、交換教師としてではなく、世界最高峰の剣士による特別授業として扱いたくなるだろう。
だから、俺は申請書の横へもう一枚の紙を置いた。
「条件がある。向こうから剣聖としての演武を頼まれても、授業に必要なければ断れ。それから、生徒をお前の基準まで引き上げようとするな」
エリシアはわずかに眉を寄せた。
「さすがに今は、初心者へ剣先十二度まで要求したりしません」
「覚えてたか」
「忘れたい失敗ほど、教師課程では何度も振り返らされますから」
少し恨めしそうな声だった。
だが、忘れない方がいい。エリシアは他人の動きを一目見ただけで、足の置き方、重心、呼吸、筋肉の使い方まで理解できる。それは剣士としては間違いなく才能だが、教師として使い方を誤れば、生徒へ一度に何十個もの修正点を投げつけることになる。
俺がそこまで考えていると、エリシアが申請書を手に取りながら言った。
「今回は、一度に一つだけ直します。それなら大丈夫ですよね?」
「一つだけ?」
「はい。相手が今いちばん困っているところを一つ見つけて、それ以外はすぐ直そうとしません」
以前のエリシアなら、間違いを見つけて放置するなど耐えられなかっただろう。
俺は頷いた。
「それなら、行ってこい」
◆
王立中央学院が用意したのは、基礎剣術の授業だった。
生徒は二十四人。全員が騎士や剣士を目指しているわけではなく、魔法使い志望もいれば、研究職を希望している者もいる。王立中央学院では最低限の護身と身体操作を学ぶため、専門外の生徒も一定期間は基礎武術を履修するらしい。
エリシアが訓練場へ姿を見せた瞬間、二十四人が一斉に立ち上がった。
「剣聖エリシア様だ……」
「本当に来た」
「今日、剣技を見せてもらえるのかな」
予想通りだった。
教師交換制度の授業というより、伝説の剣士を見に来た観客の顔になっている。
担当教師もかなり緊張していた。
「本日はありがとうございます。可能でしたら授業の最後に、剣聖様の剣を一度だけでも生徒へ――」
「今日は必要ありません」
エリシアが穏やかに断ると、教師だけでなく生徒たちからも落胆した声が漏れた。
少し前の彼女なら、その期待に応えるため巨大な岩でも両断していたかもしれない。しかし今日は、腰の剣へ触れることすらせず、訓練用の木剣を一本だけ手に取った。
「今日は私の剣を見てもらうために来たのではありません。皆さんの剣を見るために来ました」
その言葉で、訓練場が少し静かになった。
エリシアは黒板へ大きく一行だけ書く。
『今日、自分で一つ直せるようになる』
王立中央学院で学んだ、今日必ず持ち帰るもの。
それを自分の授業へ取り入れたらしい。
「一日で剣が上手になる必要はありません。私が皆さんの悪いところを全部直すこともしません。今日は一人につき、一つだけ一緒に探します」
一人の少年が手を上げた。
「剣聖様なら、見ただけで全部分かるんですよね?」
「かなり分かります」
「だったら、全部教えてもらった方が早くないですか?」
以前なら、エリシアもそう思っただろう。
だが今は、少しだけ笑って答えた。
「私はそれで一度、生徒を動けなくしました」
二十四人が目を丸くする。
「剣聖様が?」
「はい。足、腰、肩、肘、剣先、呼吸、重心を一度に直したら、何を動かせばいいのか分からなくなりました。教えている私は正しいことを言っていましたが、生徒にできなければ授業としては失敗です」
担当教師まで手帳を開いた。
エリシアは少し恥ずかしそうだったが、自分の失敗を隠さなかった。
リリアの授業から始まった変化が、ちゃんとここにも残っている。
◆
最初に木剣を振った生徒は、魔法研究者を目指している少年だった。
構えは悪くない。しかし剣を振る瞬間だけ肩へ力が入り、木剣が途中で止まる。エリシアなら、他にも十以上の修正点が見えているはずだ。
実際、彼女の目が少年の足元から指先まで何度も動いている。
それでも、すぐには何も言わなかった。
「どうして剣術を取ったの?」
最初に尋ねたのは、技術のことではなかった。
少年は少し戸惑いながら答えた。
「必修だからです。僕は魔法生物の研究をしたいので、剣士になるつもりはありません」
「では、今日どこまでできたら嬉しい?」
「試験で落ちなければ……」
周囲から笑いが起きた。
少年も照れながら笑う。
エリシアは真面目に頷いた。
「なら、剣聖の剣を目標にする必要はありませんね」
「え?」
「あなたに必要なのは、誰かと戦って勝つ剣ではなく、基礎試験を安全に終えられる剣です」
エリシアは少年の横へ立つと、自分も同じ木剣を持った。
「一つだけ直しましょう。振る瞬間に肩へ力が入っています。今日は肩だけです。足も剣先も、今は気にしなくて構いません」
「本当に一つだけ?」
「私が他に気づいても言いません」
その言葉の方が、エリシアにとって難しそうだった。
少年がもう一度振る。
まだぎこちない。
エリシアの眉がぴくりと動いた。たぶん足幅も気になったのだろう。
何も言わない。
三度目。
肩の力が少し抜けた。
「今です」
エリシアがすぐ声をかけた。
「今の感覚を覚えてください。他は明日でも直せます」
少年が嬉しそうに頷いた。
剣聖から見れば、まだ直したい場所だらけだろう。
それでも。
今日の一つはできた。
◆
二人目、三人目と続くうちに、エリシア自身にも変化が出始めた。
ある生徒には足だけ。
別の生徒には握りだけ。
剣を振るのが怖い生徒には、そもそも振らせず、木剣を持ったまま歩いてもらった。
担当教師が、その様子を見ながら不思議そうに尋ねる。
「剣を振らせなくてもよろしいのですか?」
「本人が今いちばん困っているのは、振り方ではありませんから」
その生徒は、木剣を持つと周囲へぶつけるのではないかと不安になり、身体が固まっていた。
だからエリシアは、広い訓練場を歩くだけにした。
前。
右。
左。
後ろ。
近くに人がいないか確認しながら歩く。
十分ほどすると、生徒の肩から少し力が抜けた。
「これだけでいいんですか?」
本人が聞くと、エリシアは首を横に振った。
「今日だけなら、これでいいです。次も同じことだけで終わるとは限りません」
「じゃあ次は?」
「次にあなたが困ったところを見てから決めます」
最初から全部決めない。
生徒を見る前に、成長の順番まで固定しない。
かつて剣の動きを完全に理解できるからこそ、初心者がどこで困るのか分からなかったエリシアが、今は分からないまま次回を残している。
俺は訓練場の端で、その姿を眺めていた。
◆
午前の授業が終わる頃、予想外の生徒がエリシアの前へ来た。
最初に「全部教えてもらった方が早い」と言った少年だ。
「僕も見てもらえますか?」
「もちろん」
少年は自信ありげに木剣を構えた。
実際、かなり上手い。
専門ではない基礎剣術の生徒としては飛び抜けている。踏み込みも速く、剣筋も安定していた。
一度振り終えると、周囲から拍手まで起きた。
少年は期待した顔でエリシアを見る。
「どこを直せばいいですか?」
エリシアは黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
俺には分からないが、彼女には何十個も見えているのだろう。
やがて。
「どこを直したい?」
と尋ねた。
少年が困った顔になる。
「それを剣聖様に教えてほしいんです」
「では、何のために剣を上手くなりたい?」
「強くなりたいからです」
「どれくらい?」
「できれば騎士団へ入れるくらい」
「騎士になりたいの?」
そこで。
少年の返事が止まった。
「……分かりません」
エリシアは急かさなかった。
しばらくして少年が言う。
「父が騎士なんです。兄も騎士学校へ行きました。僕も剣が一番得意だから、たぶんそうなるんだと思ってます」
「剣は好き?」
また沈黙。
「嫌いではないです」
「好きなものは?」
少年が。
少し気まずそうに笑った。
「料理です」
どこかで聞いたような話だった。
教師課程の最初の授業。
剣士になりたい十歳の生徒へ、剣聖エリシアは姿勢の細部まで教えようとした。だが実際に本人へ聞けば、本当は裁縫が好きだった。
あの時と。
少し似ている。
ただし。
エリシアは「剣をやめなさい」とは言わなかった。
「では、今日は剣の修正をしません」
少年が驚く。
「え?」
「あなたはもう基礎試験には十分合格できるでしょう。その先を直すなら、何のために直すのか決めてからでも遅くありません」
「でも、せっかく剣聖様に教えてもらえるのに」
「だからこそです」
エリシアは穏やかに答えた。
「私が剣聖だからという理由だけで、あなたの進路まで剣へ寄せたくありません」
少年は。
長く黙った。
それから。
木剣を大切そうに置いた。
「料理も続けながら考えていいですか?」
「もちろんです」
「剣も?」
「もちろん」
どちらかを。
今日決める必要はない。
その答えに、少年は安心したようだった。
◆
授業の最後。
エリシアは二十四人を集めた。
「今日、私から二つ以上直された人はいますか?」
誰も手を上げない。
それを確認すると。
エリシア自身が一番ほっとした顔をした。
生徒たちから笑いが起きる。
「先生、我慢してたんですか?」
「かなり」
「僕の時、他にもありました?」
「七つありました」
「七つ!?」
「でも今日は一つだけです」
別の生徒が尋ねる。
「明日なら教えてくれますか?」
「明日になっても、その七つ全部を教えるとは限りません。今日直したところが変われば、他の部分も変わるかもしれませんから」
王立中央学院の担当教師が。
その言葉を聞いて。
何かを書き留めた。
授業が終わった後。
彼はエリシアへ深く頭を下げる。
「勉強になりました」
「私もです」
「剣聖様でも、教えたいことを我慢するのですね」
「教師としては、その方が難しい時があります」
エリシアは苦笑した。
剣で魔物を倒すより。
目の前の一つを。
あえて直さない。
今の彼女にとっては、そちらの方が難しいのかもしれない。
◆
エルガ学院へ戻ると、エリシアは教師交換制度の実習記録を机へ広げた。
《いつもの学校との違い》
『剣を専門にしたくない生徒も、基礎剣術を学んでいる。そのため、全員へ同じ到達点を求める必要はない』
《通じなかった説明》
『「剣を上手くする」という言葉だけでは、本人の目的が分からない』
《生徒から教えられたこと》
『得意なことと、将来やりたいことは同じとは限らない』
そして。
《次に変えたいこと》
エリシアの筆がしばらく止まった。
やがて。
ゆっくり書く。
『直す場所を見つける力ではなく、今は直さなくていい場所を選ぶ力を身につけたい』
俺は横から読んで。
思わず笑った。
「昔のお前には、一番難しそうだな」
「今でも難しいです」
エリシアも笑った。
「先生。今日、二十四人を見て、合計で百六十三か所気になりました」
「数えたのか?」
「勝手に見えるんです」
それでも。
実際に指摘したのは。
一人一つ。
そして一人だけ。
何も直さなかった。
俺は頷いた。
「教師らしくなったな」
エリシアの手が止まった。
「……もう一度言ってください」
「嫌だ」
「先生」
「記録に書くなよ」
「もう覚えました」
世界最高峰の剣聖が。
戦場で褒められた時より。
少し嬉しそうな顔をしていた。
その日の夜。
王立中央学院から。
教師交換制度について新しい報告が届いた。
エリシアが授業をした基礎剣術クラス。
参加生徒二十四人。
授業後。
担当教師へ。
「自分が剣術を学ぶ理由について相談したい」と申し出た生徒。
十一人。
そのうち。
剣をもっと深く学びたいと答えた者が五人。
別の分野を優先したいと答えた者が四人。
まだ分からないと答えた者が二人。
誰も。
剣聖になりたいとは答えなかった。
エリシアは報告を読んで。
少しだけ寂しそうな顔をした。
「一人くらい、私みたいになりたいと言ってくれても……」
「さっきまで進路を剣へ寄せたくないって言ってただろ」
「それとこれは別です」
教師としては。
成長している。
剣聖としての乙女心は。
また別らしい。
そして報告書の最後には。
基礎剣術の担当教師から。
一つの依頼が添えられていた。
『次回は私がエルガ学院へ伺い、剣を怖がる生徒への教え方を学ばせてください』
エリシアが。
俺を見る。
俺も。
エリシアを見る。
教師交換制度。
どうやら。
剣術の分野でも。
一方通行ではなくなり始めていた。




