第五十二話 剣を怖がる生徒の教え方を、剣を握ると倒れていた少女に聞いてみた
王立中央学院の基礎剣術担当教師がエルガ学院へやって来たのは、エリシアの交換実習から三日後だった。
先日の報告書には、『剣を怖がる生徒への教え方を学びたい』と書かれていた。そのため、俺は最初、教師課程の授業をいくつか見てもらえば十分だろうと考えていたのだが、学院長室で詳しい事情を聞いてみると、向こうが抱えている問題は思っていたより具体的だった。
「今年の基礎剣術では、木剣を握る段階で身体が固まってしまう生徒が四人います。これまでは軽い武器から慣らし、振る回数を増やしながら恐怖を薄める方法を取ってきました。しかし、一人は半年続けても、ほとんど改善していません」
そう説明しながら、教師は分厚い授業記録を机へ置いた。
練習へ参加した日数、木剣を持っていられた時間、素振りの回数、途中で中断した回数まで細かく残されている。少なくとも、何も考えずに反復練習だけを押しつけていたわけではないらしい。
俺は何枚か記録をめくってから、教師へ尋ねた。
「本人には、何が怖いのか聞きました?」
「剣そのものが怖いのだと考えていました」
「そうではなくて、その子自身が何を怖いと言ったのかです」
教師は答えかけて口を閉じた。自分の記録をもう一度めくってみたものの、そこに求めている答えはなかったらしい。
「……聞いていません」
以前なら、こういう言葉を口にする教師はかなり気まずそうな顔をしたものだが、最近は少し変わってきた。分からないことや、確認していなかったことを認めるのが、以前ほど恥ずかしいことではなくなりつつある。
「なら、まずそこからでしょうね。ただ、今日は俺より詳しい奴がいるので、そいつにも話を聞いてみましょう」
「剣術の教師ですか?」
「生徒です」
教師が怪訝そうな顔をしたので、俺は廊下へ声をかけた。
「セシリア、入っていいぞ」
扉が開き、セシリアが顔を覗かせた。腰には今の彼女が使っている剣が下がっているが、それとは別に、右手には一本の古びた木の枝を持っていた。
王立中央学院の教師は、腰の剣より先にそちらへ目を奪われた。
「それは……?」
「私の最初の剣です」
セシリアが真顔で答えると、教師は困惑したように俺を見る。
「木の枝ですよね?」
「俺も最初はそう言ったんですが、本人にとっては最初の剣です」
「先生が渡したんですよ」
「覚えてるよ」
忘れるわけがない。
あの頃のセシリアは、本物の剣へ手をかけるだけで指が震え、鞘から半分も抜かないうちに意識を失っていた。それでも本人は騎士になることを諦めようとしなかったから、俺は剣を握れないなら、剣ではないものから始めればいいと考えた。
そうして最初に渡したのが、この何の変哲もない木の枝だった。
◇
場所を教師課程の小さな実習室へ移すと、セシリアは机の上へ木の枝と自分の剣を並べた。
王立中央学院の教師は向かいに座り、俺とエリシアは少し離れたところから二人の話を聞くことにした。
「私は、剣そのものが怖かったわけではありません」
セシリアは腰の剣へ指先を添えながら、ゆっくり説明を始めた。
「正確には、剣から感じるものが怖かったんです。私は昔から感覚が強すぎて、実戦で使われた武器へ触れると、その武器が浴びてきた殺気や恐怖まで感じ取ってしまいました」
教師の表情が変わる。
「そんな感覚があるのですか?」
「はい。先生が最初に気づいてくれました」
そう言ってセシリアは木の枝を持ち上げた。
「これは誰も傷つけたことがありません。だから、初めて握った時にも何も感じませんでした。枝を振るところから始めて、その次に木剣、さらに新しく作られた刃のない練習剣へ進みました。私は少しずつ、何を感じると苦しくなるのかを確認しながら慣れていったんです」
王立中央学院の教師は、自分が持ってきた記録へ視線を落とした。
「私は、四人とも同じように木剣から始めさせました」
「木剣なら怖くない人には、それでいいと思います」
「ですが、怖がっているからこそ本物の剣ではなく木剣を――」
そこまで言ったところで、セシリアが静かに首を横へ振った。
「先生。その子たちは、本当に木剣なら怖くないんですか?」
教師の口が止まった。
セシリアは責めるような言い方をしなかった。むしろ、自分が昔どうだったのかを思い出しながら、相手にも考える時間を渡しているようだった。
「私はずっと、『剣から逃げてはいけない』と思っていました。だから本物の剣を握れと言われたら、何度倒れても握ろうとしたと思います。でも、それではたぶん何も変わらなかったです」
「……」
「先生が『木剣なら怖くないから大丈夫だ』と言えば、生徒も『大丈夫です』と言ってしまうかもしれません。でも、先生にとって怖くないものと、その子にとって怖くないものは、同じとは限りません」
教師はしばらく黙ってから、記録用紙へ一行を書き足した。
『木剣なら安全だと、教師側が決めていた』
書き終えた文字を眺め、少し苦笑する。
「これは痛いところですね」
「私も今だから言えるだけです。昔は先生から木の枝を渡された時に、『こんなものでは魔物を斬れません』って文句を言いましたから」
「言ってたな」
「先生は覚えすぎです」
セシリアが不満そうに俺を見る。その隣では、エリシアが机の上の木の枝を珍しそうに眺めていた。
「それ、まだ持っていたのね」
「もちろんです。私が初めて気絶せずに振れた剣ですから」
「枝だけどな」
「先生」
また怒られた。
◇
午後は教師課程の実習場を使うことになったが、そこで行うのは剣術そのものではなかった。
机の上に、木の枝、木剣、鞘に入った練習剣、刃を潰した剣、金属製の棒、小さな盾を並べる。その隣には、あえて何も置かない空いた場所も作った。
王立中央学院の教師は、その空白を見て首を傾げた。
「最後は何です?」
「何も持たない場所です」
セシリアが答える。
「剣を持つこと自体が怖いなら、最初は持たなくてもいいので」
「それでは剣術の練習にならないのでは?」
教師はそう言ってから、自分で何かに気づいたらしく、言葉を止めた。
ちょうど先日の交換実習で、エリシアも似たようなところへ辿り着いている。
「私も以前ならそう言いました」
エリシアが横から穏やかに口を挟んだ。
「でも、王立中央学院で剣を振ること自体を怖がっている生徒を見た時は、最初から振らせませんでした。木剣を持ったまま歩いて、周囲を確認するところから始めたんです。何を怖がっているのか分からない状態で技術だけ教えても、身体が動かなかったので」
「剣聖エリシア様が?」
「教師見習いのエリシアです」
「あ……失礼しました」
まだ向こうも慣れないらしい。
エリシアは苦笑しながら許し、そのまま机の上の道具へ目をやった。
「剣術を教えるなら剣を振らせる。それ自体は間違っていません。でも、その前で止まっている生徒まで同じところへ連れていこうとすると、余計に遠回りになることがあります」
教師はセシリアとエリシアを交互に見た。
一人は、かつて剣を握るだけで倒れていた少女。もう一人は、一目見れば初心者の動きから何十か所もの修正点を見つけられる世界最高峰の剣士だ。
その二人が揃って、最初に剣を振らせる必要はないと言っている。
しばらくして、教師は小さく笑った。
「私は二十年以上、剣術を教えています。剣を怖がる生徒には、剣が安全だと教えることばかり考えてきました。でも、何を怖がっているのかを探すところから始めたことはありません」
俺は何も言わなかった。
本人がそこまで辿り着いたのなら、今は答えを足す必要もない。
◇
翌日、王立中央学院の教師は再び実習室へやって来た。
手に持っているのは、昨日までの授業記録とは別の紙だった。
「四人の生徒について、担任を通じて本人へ確認しました。今まで聞いていなかったので、まず聞くべきだと思いまして」
「早かったですね」
「昨日ここで話した後、そのまま連絡しました」
机へ広げられた紙を見る。
結果は、四人とも違っていた。
一人目は、幼い頃に家族が剣の稽古中に大怪我をした場面を見ていた。そのため、木剣であっても剣の形を見るだけで、その時の光景を思い出してしまう。
二人目が怖がっていたのは、剣そのものではなかった。以前の実技試験で失敗し、周囲から笑われた経験があり、それ以来、人前で剣を持つと身体が固まってしまう。
三人目は、重い武器を握ると手首が痛んでいた。しかし体力不足と思われたくなくて、本当のことを言えず、ただ「怖い」とだけ答えていた。
そして四人目について話す時、教師は少し困った顔になった。
「この生徒は……剣が嫌いだそうです」
セシリアが瞬きをした。
「怖いのではなく?」
「はい。本人いわく、『将来使うつもりもないのに、どうして剣を振らなければいけないのか分からない』と」
思わず笑いそうになった。
教師自身も苦笑している。
「四人とも剣術の時間になると動けなくなるので、同じ問題だと思っていました」
外から見れば、全員《剣を怖がる生徒》だった。
だが実際は、過去の事故が怖い者、人に笑われるのが怖い者、身体が痛い者、そしてそもそも剣を学びたくない者。
これで同じ教え方が通用するはずがない。
「四人に、これからも同じ木剣の練習を続けますか?」
セシリアが尋ねると、教師は今度こそ迷わず首を横へ振った。
「続けません。一人目には、まず剣を持たずに訓練場へいられるところから始めます。必要なら担任や家族とも相談します。二人目には、人目の少ない時間に練習できる環境を用意します。三人目は、その前に医務室で手首を診てもらいます」
そこで一度言葉を切り、四人目の紙を見る。
「最後の一人だけは、基礎剣術が必修なので、私の判断だけで完全に免除することはできません。ただ、なぜ必修なのかを説明した上で、本人に必要な最低目標を一緒に考えてみます」
王立中央学院で教わった《今日必ず覚えること》。
エリシアが交換実習で学んだ、《全員へ同じ到達点を求めなくてもいい》という考え方。
最近積み重なってきたものが、少しずつ繋がっている。
「それでいいと思います」
セシリアが笑うと、教師も穏やかに頷いた。
それから、彼はセシリアが大切そうに持っている木の枝へ視線を向ける。
「一つ、お願いしてもいいですか。その木の枝を、少し持たせてもらえませんか?」
「これを?」
「はい」
セシリアは意外そうな顔をしたが、すぐに差し出した。
二十年以上剣を教えてきた教師の手が、ただの木の枝を握る。何度か軽く振ってみるが、当然ながら特別な音などしないし、魔法が宿っているわけでもない。
「本当に、ただの枝ですね」
「はい」
「これを最初の剣として渡したのですか」
今度は俺へ向けられた問いに、俺は頷いた。
「あの時のセシリアには、一番必要だったので」
「剣術教師としては、たぶん思いつきません」
「俺は剣術教師じゃないですから」
教師はその返答にしばらく考え込んだ後、小さく呟いた。
「だから、なのかもしれませんね」
「何がです?」
「剣術を教える人間は、剣術の中で問題を解こうとしすぎるのかもしれません」
剣を握れないなら軽い剣。重いなら短い剣。怖いなら木剣。できないなら、もっと練習。
全部、剣術の中にある答えだ。
でも最初の一歩は、木の枝でもいい。何も持たなくてもいい。そもそも、その生徒にとって剣を上手くなることが本当に必要なのか、そこから考え直してもいい。
教師は木の枝をセシリアへ返した。
「勉強になりました」
セシリアは受け取りながら、自分も首を横へ振る。
「私も先生に教えてもらいました。私は自分が剣を怖がっていた理由しか知りませんでしたから」
「私が?」
「はい。次に誰かが剣を怖がっていても、私と同じ理由だと決めつけないようにします」
教師は嬉しそうに笑った。
「では、お互いに一つずつですね」
◇
その日の夕方、セシリアは《未発見才能記録》とは別の紙へ、今日のことを書き残していた。
最近は教師見習いだけでなく、生徒たちまで記録を取る癖がつき始めている。俺が近づくと、セシリアは慌てて紙を伏せた。
「見ないでください」
「見てないぞ」
「今、明らかに見ようとしました」
「気のせいだ」
「先生」
昔より、ずいぶん言い返すようになった。
結局、少し迷った末に本人から紙を見せてくれた。
《今日分かったこと》
『同じように怖がっていても、同じ理由とは限らない』
その下の《まだ分からないこと》には、しばらく考えた跡が残っていた。
『私は今、どこまで本物の剣から感じても大丈夫なのか』
俺はその一文を読み、セシリアの腰にある剣へ視線を落とした。
「試してみたいか?」
「はい」
返事は早かった。
昔とは違う。
怖いから無理をして握るのではない。今の自分がどこまで進んだのかを、自分の意思で知りたいのだ。
「じゃあ明日、一緒にやるか」
「先生が?」
「嫌なら別の奴に頼むが」
「いえ」
セシリアは首を横へ振ると、木の枝を胸元へ抱き直した。その顔には、ほんの少しだけ嬉しそうな色が浮かんでいる。
「先生とやります」
追放され、この学院へ来たばかりの頃。
剣を半分抜いただけで意識を失った少女がいた。
あれから教師が増え、生徒が増え、学校まで増えた。最近では他国や他校の教育へまで話が広がり、俺自身、目の前のことを追いかけるだけで精一杯になっていた気がする。
だから、たまには最初の生徒を見るのもいい。
あの頃から、どこまで進んだのか。
俺自身も、まだ知らないのだから。
そう思いながら翌朝、セシリアとの訓練のため運動場へ向かうと、なぜかそこにはミレイユとノエルまで待っていた。
二人とも、俺を見るなり少し不満そうな顔をする。
「どうした?」
尋ねると、二人は顔を見合わせた後、ほとんど同時に答えた。
「セシリアだけ、ずるいです」
何がずるいのか、俺にはまったく分からない。
ただ、その後ろを見ると、初日に屋根を吹き飛ばしたミレイユと、角ウサギばかり元気にしていたノエルが、それぞれ昔使っていた練習道具を持って立っていた。
どうやら今日の授業は、セシリア一人では終わらないらしい。




