第四十九話 教師交換制度を始めたら、勇者が普通の学校で授業することになりました
翌朝、俺の机の上には一冊の提案書が置かれていた。
表紙には、大きく四文字。
《教師交換制度》
嫌な予感というものは、だいたい当たる。
「説明してもらえるか?」
俺が顔を上げると、向かいに立っていた教師見習いの青年が大きく頷いた。
名前はノーマン。
教師課程へ入る前は、小さな町で読み書きを教えていたらしい。教師としての経験はあるが、大人数の授業や魔法教育について学び直したいと言ってここへ来た。
「はい。先日の王立中央学院の講義を見て思ったんです」
ノーマンは提案書を開いた。
「教師が別の学校へ行って、実際に授業をする制度があればいいんじゃないかと」
「見学じゃなく?」
「授業です」
そこが一番嫌な部分だった。
見学なら、まだ後ろから眺めて帰ってくるだけで済む。
授業となれば話が違う。
「目的は?」
「自分の学校では気づけない教え方の癖を見つけることです」
思ったより真面目な答えだった。
ノーマンは続ける。
「同じ生徒を長く教えていると、その学校のやり方が当たり前になります。逆に、別の学校へ行けば、自分が当然だと思っていたことが通じないかもしれません」
それは分かる。
王立中央学院の教師たちが、この学院へ来て初めて気づいたことも多かった。
俺たちだって同じだ。
「ただし」
俺は提案書を閉じた。
「生徒を実験台にはしないぞ」
「もちろんです」
「交換される教師の都合で授業内容を変えない。生徒が嫌がるなら入れない。合わないと思ったら途中で止める」
「はい」
「あと、交換先で偉そうにするな」
ノーマンが少し笑った。
「そこは書いてありませんでした」
「書いとけ」
「追加します」
近くで聞いていたカイルが、当然のように新しい紙を出した。
最近こいつは、何か始まりそうになると先に記録用紙を準備する。
「先生」
「なんだ」
「交換するなら、何を見るか決めた方がいいと思います」
「例えば?」
「いつもの学校と違って困ったこと。通じなかった説明。生徒から聞かれた質問。逆に、その学校で参考になったこと」
俺はノーマンを見る。
「追加」
「はい」
提案書が。
もう改訂され始めた。
まだ採用すると言っていない。
◆
問題は。
誰が最初に行くかだった。
教師交換制度など、いきなり何十人で始める気はない。
まず一人。
それで問題が出なければ、次を考える。
「誰か希望者は?」
教師課程の講堂で尋ねると。
何人かが手を上げた。
その中に。
当然のように。
七本の手があった。
俺は見なかったことにしようとした。
「先生」
リリアが呼ぶ。
「なんだ」
「私たちも手を上げています」
「見えてる」
「では、どうして他の人ばかり見ているんですか?」
「気のせいだ」
「先生」
逃げられなかった。
リリアだけではない。
剣の勇者も、治癒の勇者も、他の五人も、妙にやる気のある顔をしている。
俺は頭を抱えた。
「お前たちが行くと、普通の教師交換にならないだろ」
「なぜですか?」
「勇者が来た時点で騒ぎになる」
七人とも。
少しだけ黙った。
自覚はあるらしい。
リリアが反論する。
「でも、私たちも教師見習いです」
「それはそうだ」
「他の学校で教える経験も必要ですよね?」
「それもそうだ」
「なら」
「だから困ってるんだ」
教師見習いとして見れば。
行かせる理由はある。
世界を救った勇者として見れば。
行かせた瞬間。
学校の授業より騒ぎになる。
そこで。
講堂の後ろから声がした。
「一校だけ、受け入れてもいいところがあります」
全員が振り返る。
立っていたのは。
第四校の学院長候補として動いているエレナだった。
「第四校なら?」
俺が尋ねる。
「はい。まだ教師配置を調整している段階ですし、勇者様方が来ること自体は生徒も知っています。それに」
エレナは少し笑った。
「うちの生徒たちは、もうこの学院の騒ぎに慣れています」
それは。
いいことなのだろうか。
少し疑問だった。
「ただ」
エレナが続ける。
「第四校だけでは、交換制度の意味が薄いと思います」
「そうだな」
「ですから、もう一校」
一枚の書類を出した。
「候補があります」
俺は受け取る。
場所は。
エルガ学院から転移門を二つ乗り継いだ先。
小さな町にある。
公立初等学校。
生徒数。
八十六人。
教師。
五人。
特別な名門でもなければ。
魔法教育で有名な学校でもない。
本当に。
普通の学校だった。
「ここが?」
「はい」
エレナは頷く。
「以前、第四校へ生徒を送ってくれた学校です。教師不足で困っているので、一日だけなら受け入れたいと」
その瞬間。
リリアの手が。
さらに高く上がった。
「私が行きます」
「まだ決めてない」
「私が行きます」
「二回言うな」
「大事なので」
嫌な予感が。
また増えた。
◆
結局。
最初の交換教師は。
リリアになった。
理由は単純だ。
本人の希望が強い。
最近、実習で質問の拾い方や授業進行について悩んでいる。
そして何より。
普通の学校で。
勇者ではなく。
一人の教師見習いとして授業ができるか。
試す価値があった。
「ただし」
出発前。
俺は何度も確認した。
「勇者として何か見せる必要はない」
「はい」
「大魔法は禁止」
「はい」
「頼まれても校庭を吹き飛ばすな」
「吹き飛ばしません!」
「昔やっただろ」
「敵がいました!」
「今回はいないからな」
リリアは。
不満そうに頬を膨らませた。
横でカイルが記録用紙を渡す。
「これ、交換実習用です」
項目は。
かなり少ない。
――通じなかった説明。
――生徒から教えられたこと。
――いつもの学校との違い。
――次に変えたいこと。
最後に。
――まだ分からないこと。
やっぱりある。
「ありがとう、カイル君」
「帰ってきたら見せてください」
「嫌です」
「なぜです?」
「失敗ばかり書いてあったら恥ずかしいので」
「それを見るための記録ですよ?」
「最近、カイル君ちょっと厳しくないですか?」
教師らしくなったと言うべきか。
面倒な記録係になったと言うべきか。
判断が難しい。
◆
交換先の学校は。
本当に普通だった。
石造りの小さな校舎。
校庭。
古い鐘。
玄関には。
生徒たちが作った季節の飾り。
華やかな魔法設備も。
学院管理人形もいない。
校長が。
俺たちを出迎えた。
「本当に勇者リリア様が……」
すでに声が震えている。
「今日は教師見習いとして来ています」
俺が先に言う。
「ですので、できれば普通に扱ってください」
「普通に」
校長はリリアを見る。
リリアが笑顔で頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「……善処します」
無理そうだ。
教室へ入ると。
もっと無理だった。
二十七人の生徒。
全員。
直立。
「勇者様だ……」
「本物……」
「すごい……」
誰も教科書を見ていない。
全員。
リリアだけ見ている。
リリアも。
少し困った顔をした。
しかし。
前回の実習とは違う。
「皆さん」
教壇へ立つ。
「今日は勇者として来たわけではありません」
一人の少年が手を上げた。
「でも勇者ですよね?」
「はい」
「魔王を倒したんですよね?」
「倒すのを手伝いました」
「ドラゴンも?」
「戦いました」
「見せて!」
授業開始。
三十秒。
もう。
予定から外れた。
リリアが俺を見る。
俺は。
教室の後ろから首を横に振った。
助けない。
今日は。
本人の授業だ。
リリアは。
少し考える。
そして。
黒板へ。
大きく書いた。
《今日やらないこと》
生徒たちが。
静かになる。
その下へ。
『ドラゴン退治』
『大魔法』
『魔王との戦いの再現』
一つずつ。
書く。
「えー!」
当然。
不満が出た。
「ですが」
リリアは。
今度は反対側へ。
《今日やること》
と書く。
『火を安全につける』
「小さい!」
誰かが叫んだ。
教室中が笑う。
リリアも笑った。
「そうです。今日はものすごく小さい魔法です」
そして。
手のひらに。
ほんの小さな炎を出した。
ろうそく一本に火をつける程度。
「私は大きな魔法も使えます。でも」
炎を消す。
「今日、皆さんに覚えてほしいのは」
黒板へ。
一行。
『必要な分だけ魔力を使う』
「これです」
王立中央学院から教わった。
《今日必ず覚えること》。
一つだけ。
使っている。
◆
授業は。
思ったよりうまく進んだ。
最初は勇者しか見ていなかった生徒たちも。
実際に魔法を使い始めると。
少しずつ自分の手元を見るようになった。
ただ。
エルガ学院とは違う問題も出た。
「先生!」
一人の少女が手を上げる。
「魔力が出ません!」
リリアが近づく。
「では、一緒に――」
そこまで言って。
止まった。
この学校には。
魔力がほとんどない生徒もいる。
エルガ学院では。
最初から。
得意不得意に応じて授業を変えることが多い。
だが。
ここでは。
一人の教師が。
二十七人へ。
同じ基礎魔法を教えている。
少女は。
周囲を見る。
他の生徒の手には。
小さな火。
自分だけ。
出ない。
顔が。
どんどん曇っていく。
リリアは。
しゃがんだ。
「火を出したい?」
「……うん」
「どうして?」
少女が。
少し迷った。
「みんな出してるから」
リリアの表情が変わる。
「火を使って、何かしたい?」
「別に……」
「じゃあ」
少女の机を見る。
端に。
小さな布袋が置かれていた。
「それ、何?」
「薬草」
「持ってきたの?」
「うん。お母さんが薬師だから」
少女は。
少しだけ嬉しそうになる。
「匂いで種類分かるよ」
「本当に?」
「うん」
袋から。
何枚か葉を出す。
「これは熱に弱いから、火に近づけちゃ駄目」
リリアが。
黙った。
今日の授業。
火を安全につける。
けれど。
この少女に必要なのは。
火をつけることではないのかもしれない。
リリアは。
教室の担当教師を見る。
教師も。
少し困った顔をしていた。
「先生」
リリアが尋ねる。
「この子、別の課題にしてもいいですか?」
担当教師は。
すぐ答えなかった。
「今までは」
少し申し訳なさそうに言う。
「同じ授業なので、全員に同じことをやらせていました」
「そうですよね」
「でも」
少女を見る。
「今日は、任せます」
リリアは頷いた。
少女へ向き直る。
「じゃあ、火を出す代わりに」
「うん」
「どの薬草が火に強くて、どれが弱いか、教えてくれる?」
少女の顔が。
ぱっと明るくなった。
「いいの?」
「先生にも教えて」
「分かった!」
そこから。
なぜか。
授業の一角だけ。
薬草講座になった。
火魔法の授業なのに。
◆
昼休み。
リリアは。
交換実習用の記録へ。
長い文章を書いていた。
俺が覗く。
――いつもの学校との違い。
『同じ授業を全員で受けるため、自分だけ別のことをするのを生徒が嫌がることがある』
――生徒から教えられたこと。
『魔法が使えないことより、“みんなと同じことができない”ことを気にする生徒がいる』
――通じなかった説明。
『エルガ学院で普通に使っていた“自分に合う方法を選べばいい”という説明が、すぐには安心につながらなかった』
筆が止まる。
最後。
――まだ分からないこと。
かなり長く考えて。
『同じことを学ぶ安心と、違うことを学べる自由を、どう両方守るか』
俺は。
何も言わなかった。
いい問いだと思った。
今まで。
エルガ学院では。
一人一人に合わせることを重視してきた。
それは間違っていない。
だが。
同じ教室で。
同じものを学ぶことそのものが。
安心になる生徒もいる。
違っていい。
だけでは。
足りない場合もある。
この学校へ来なければ。
気づきにくかったことだ。
◆
午後。
リリアは授業を少し変えた。
全員が。
同じ課題をやる時間。
十五分。
その後。
自分で選ぶ時間。
十五分。
火を練習したい生徒は続ける。
薬草を調べたい少女は。
火と薬草の相性を調べる。
魔力を出しづらい別の少年は。
火を使わず安全に明かりを取る方法を考え始めた。
全員。
違う。
でも。
最初の十五分は。
一緒だった。
授業が終わる頃。
朝。
薬草袋を持っていた少女が。
リリアのところへ来た。
「勇者様」
「今日は先生でお願いします」
「リリア先生」
「はい」
少女は。
少し恥ずかしそうに言った。
「火、出せなかったけど」
「うん」
「今日の授業、できなかったことになる?」
リリアは。
すぐ答えなかった。
以前なら。
「そんなことありません」
と。
励ましたかもしれない。
でも。
今日は。
少し考えた。
「今日の目標は、必要な分だけ魔力を使うことだったよね」
「うん」
「あなたは火を出してない」
「うん」
「だから、火を出す練習はできてない」
少女の顔が。
少し曇る。
けれど。
リリアは続けた。
「でも」
机の上。
薬草が。
熱源からどれくらい離れれば傷まないか。
記録されている。
「火を使う時に、何を近づけちゃいけないかは、教室で一番詳しくなった」
少女が。
顔を上げる。
「それも今日の授業?」
「先生は」
リリアが笑った。
「そう思う」
少女も。
笑った。
◆
夕方。
交換実習は終わった。
校長が。
何度も頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
リリアも。
深く頭を下げた。
勇者としてではなく。
教師見習いとして。
「私の方が、たくさん教えてもらいました」
帰りの転移門。
俺は。
リリアへ尋ねた。
「どうだった?」
「難しかったです」
即答だった。
「エルガ学院より?」
「違う難しさでした」
「また来たいか?」
リリアは。
一度。
振り返った。
小さな校舎。
校庭。
窓から。
生徒たちが手を振っている。
薬草の少女も。
いる。
「はい」
今度は。
迷わなかった。
「もっと上手に教えられるようになってから」
俺は首を横に振る。
「上手くなってからじゃなくてもいいだろ」
リリアが。
少し驚く。
「次に来て」
「また失敗して」
「その次に直せばいい」
リリアは。
しばらく俺を見る。
そして。
笑った。
「先生みたいなこと言いますね」
「俺だよ」
「そうでした」
転移門を。
二人でくぐる。
◆
学院へ戻ると。
カイルが待っていた。
「リリアさん!」
「ただいま」
「記録!」
「最初にそれですか?」
教師交換制度の。
第一回。
結果。
成功か。
失敗か。
まだ分からない。
ただ。
リリアの記録用紙には。
出発前にはなかった問いが。
四つ増えていた。
そして。
翌朝。
今度は王立中央学院から。
一通の手紙が届いた。
『教師交換制度について、当学院からも一名参加を希望します』
そこまでは。
予想できた。
問題は。
その下。
交換を希望している教師の名前だった。
カイルが。
手紙を読んだまま。
完全に固まっている。
「どうした?」
「先生」
「なんだ」
カイルが。
ゆっくり顔を上げた。
「僕の」
一度。
言葉に詰まる。
「元担任です」
俺は。
手紙を見る。
そこには。
王立中央学院。
魔法理論担当。
そして。
カイルを六年間教えてきた教師の名前が。
はっきり書かれていた。
教師交換制度。
第二回。
どうやら次は。
首席資格を失った元生徒がいる学校へ。
その元担任が。
教師見習いとして学びに来るらしい。




