第四十六話 最強の勇者の授業では、なぜか誰も「分かりません」と言えません
王立中央学院から届いた手紙を読んだ翌日、俺は久しぶりに教師課程の実習を見に行った。
ここ数日はカイルや王立中央学院の教師たちに付き合っていたせいで、こちらを任せきりにしていたからだ。
教師課程には、それぞれ違う経験を持つ者が集まっている。もともと教師だった者もいれば、これまで誰かに何かを教えた経験すらない者もいる。当然、成長の速さも得意な授業も違った。
そして、俺が育てた七人の勇者たちも例外ではない。
むしろ、こいつらの場合。
強すぎることが問題になる。
「――ですから、火属性魔法を安定させるには、魔力を一気に押し込むのではなく、最初に小さな核を作ってから外側へ広げていきます」
教室の前で説明しているのはリリアだった。
黒板には、きれいな魔力循環図が描かれている。説明も間違っていない。声も聞き取りやすく、生徒を見る余裕もある。
教師課程へ入ったばかりの頃と比べれば、ずいぶん上達した。
問題は。
「ここまでで、分からないところはありますか?」
リリアが尋ねると、教室にいる十五人の生徒が一斉に首を横へ振ったことだった。
「ありません!」
妙に元気な返事まで揃った。
俺は教室の後ろからその様子を眺め、隣にいたカイルへ小声で尋ねる。
「どう思う?」
カイルは腕を組んだ。
「全員理解した……ようには見えません」
「だよな」
一番前に座っている少年は、さっきから教科書の同じ場所を何度も見ている。左側の少女は、黒板の図を写す途中で手が止まったままだ。
それでも。
「では、次へ進みますね」
誰も質問しないので、リリアは授業を進めた。
火球生成の実践。
最初の生徒が前へ出る。
手のひらへ魔力を集め。
失敗した。
火花だけが散る。
「大丈夫ですよ。もう一度やってみましょう」
リリアは優しく声をかける。
少年は頷いて、再び挑戦した。
また失敗。
三度目。
失敗。
リリアは怒らない。
「焦らなくていいんですよ。先ほど説明したように、最初に小さな核を――」
少年の顔が、どんどん青くなっていった。
俺は手を上げた。
「リリア」
「はい、先生?」
「一回止めよう」
「え?」
リリアは不思議そうだった。
授業自体には、大きな失敗がないと思っているのだろう。
俺は少年へ尋ねた。
「さっきの説明、分かったか?」
「はい!」
即答。
「本当に?」
「はい!」
「じゃあ、魔力の核って何だ?」
「……」
少年が固まった。
五秒。
十秒。
とうとう俯く。
「……分かりません」
リリアの顔も固まった。
「え?」
少年は肩を震わせながら、小さな声で続ける。
「最初のところから、よく分かってませんでした」
「でも、さっき私は聞きましたよね? 分からないところはありますかって」
「聞かれました」
「その時、ないって……」
少年は恐る恐る顔を上げ、リリアを見た。
そして。
「勇者様に『分かりません』って言うの、怖いです」
教室が静まり返った。
リリアの笑顔が固まった。
「……怖い?」
「はい」
別の少女まで手を上げた。
「私もです」
さらに一人。
「僕も」
「私も……」
次々と。
手が上がる。
十五人中。
十三人。
リリアは完全に固まった。
◆
「どうしてですか!?」
授業を中断して別室へ移った途端、リリアは俺へ詰め寄ってきた。
「私、怒ってませんよね!?」
「怒ってないな」
「失敗しても責めてません!」
「責めてない」
「分からなかったら聞いてくださいって、ちゃんと言いました!」
「言ったな」
「では、どうして!?」
俺は答えず。
カイルを見る。
最近。
こういう時に俺だけで答えを出さないことにしている。
カイルも、それを分かっているらしい。
少し考えた後で言った。
「リリアさんが勇者だからじゃないですか?」
「それはさっき聞きました!」
「違います。勇者だから怖い、という意味を考えています」
リリアが黙る。
カイルは自分の《未発見才能記録》を開いた。
「生徒にとってリリアさんは、魔王軍を退けた世界最高峰の魔法使いです」
「……はい」
「その人から『分かりましたか?』って聞かれたら」
少し迷って。
「分からない自分がおかしいと思うのかもしれません」
リリアの表情が変わった。
俺も。
たぶん、それだと思った。
リリアは優しい。
怒鳴らない。
失敗しても責めない。
だが。
それだけでは足りなかった。
教える側がどれだけ優しくても、教わる側が「こんな簡単なことも分からないと思われたくない」と感じれば、質問はできない。
まして相手は。
勇者だ。
「私……」
リリアは椅子へ座った。
「先生に教えてもらっていた時、普通に『分かりません』って言ってました」
「言ってたな」
「何回も」
「かなりな」
「先生、ひどいです」
「事実だ」
それでも。
リリアは少し笑った。
そして、その笑顔がすぐに消える。
「先生は、どうして私たちが言えたんですか?」
今度は。
俺が止まった。
考えてみる。
七人を育てていた頃。
俺は自分を偉い教師だと思ったことなんてなかった。飯を食わせ、怪我を治し、できないことがあれば一緒に考えた。
俺自身。
分からないことだらけだった。
魔法についてリリアの方が詳しくなった時も。
剣について俺より遥かに強くなった時も。
知らないものは知らないと言った。
「俺がよく分からないって言ってたからじゃないか?」
リリアが瞬きをする。
「先生が?」
「ああ」
カイルが。
ものすごい勢いで何かを書き始めた。
「何書いてる?」
「今のです」
「記録しなくてもいいだろ」
「必要です」
最近こいつは。
何でも紙にする。
◆
午後。
リリアは同じ十五人を集めた。
もう一度。
火属性魔法の授業。
ただし。
黒板の前へ立つ前に。
リリアは一冊の教科書を持ってきた。
「授業を始める前に、皆さんへ一つ見せたいものがあります」
教科書を開く。
かなり古い。
俺には。
見覚えがあった。
リリアがまだ子供だった頃に使っていたものだ。
「これは、私が先生に魔法を教えてもらっていた頃の教科書です」
生徒たちがざわつく。
リリアは一ページを開いて黒板へ貼った。
そこには。
赤い文字で。
大量の書き込みがあった。
『分からない』
『ここも分からない』
『なんで?』
『先生の説明が分かりにくい』
俺は目を細めた。
「最後のは消していいか?」
「駄目です」
「なんでだ」
「事実なので」
生徒たちが笑った。
リリアも笑う。
「私は、このページだけで先生に十二回質問しました」
「十五回だ」
「覚えてるんですか?」
「途中で飯の時間になったからな」
さらに笑いが広がる。
リリアは。
しばらく教科書を見てから。
生徒たちへ向き直った。
「私は勇者になりました」
教室が静かになる。
「でも、最初から何でも分かったわけではありません」
ページをめくる。
そこにも。
分からない。
失敗。
やり直し。
そんな文字が並んでいる。
「今でも、分からないことがあります」
一人の生徒が恐る恐る尋ねた。
「勇者様でも?」
「はい」
リリアは即答した。
「教師の勉強なんて、分からないことだらけです」
俺を見る。
「先生に何度も直されています」
「何度もな」
「そこは強調しなくていいです」
また。
教室が笑う。
さっきまで。
少し張り詰めていた空気が。
柔らかくなった。
リリアは黒板へ。
大きく書いた。
《分からない、と言った人を褒めます》
生徒たちが。
目を丸くした。
「褒めるんですか?」
「はい」
「分からないのに?」
「分からない場所が分かれば、そこから勉強できますから」
そして。
授業を最初からやり直した。
「魔力の核とは――」
説明を始めて。
三分。
一人の手が上がった。
さっき。
失敗していた少年だった。
「勇者様」
「はい」
「もう分かりません」
教室から笑いが起きる。
リリアも笑った。
「ありがとうございます。どこからですか?」
「最初の『魔力を集める』からです」
「かなり最初ですね」
「はい」
「では、そこからやりましょう」
今度は。
誰も笑わなかった。
リリアは。
説明方法を変えた。
図ではなく。
小さな器と水を使う。
魔力を水。
核を器の底へ溜まる最初の一滴として説明する。
少年が。
何度か確認し。
「分かったかも」
と言った。
「では、やってみましょう」
火球を作る。
一度目。
小さな火花。
二度目。
豆粒ほどの炎。
少年自身が驚く。
三度目。
小さな火球になった。
「できた……!」
リリアが。
誰より嬉しそうに笑った。
「できましたね!」
その瞬間。
教室の後ろから。
次々に手が上がった。
「勇者様、私も途中から分かりません!」
「僕はさっきの器のところ!」
「私は魔力を集める感覚が分かりません!」
十五人。
ほぼ全員。
リリアは。
上がった手の数を見て。
一瞬だけ青くなった。
「先生」
「なんだ」
「急に増えすぎです」
「よかったじゃないか」
「今日中に終わりません」
「授業なんてそんなもんだ」
リリアは。
少し困った顔をしながら。
それでも嬉しそうだった。
◆
夕方。
教師課程の記録室で。
リリアが今日の実習記録を書いていた。
《反省点》
『質問しやすいと言うだけでは、質問しやすい教室にはならない』
その下。
《今日分かったこと》
『教師が自分の失敗を隠さないことも、生徒を安心させる』
さらに。
《まだ分からないこと》
筆が止まる。
しばらく考え。
書いた。
『勇者ではない先生として、生徒にどう見てもらうか』
俺は横から読んだ。
「別に勇者をやめる必要はないだろ」
リリアが顔を上げる。
「でも、それで怖がらせたら」
「勇者のリリアにしか教えられないこともある」
「……例えば?」
俺は。
昔の教科書を指した。
「世界最強になった奴でも、最初は『分からない』だらけだったって教えられる」
リリアが。
教科書を見る。
少しだけ。
頬が緩む。
「先生」
「なんだ」
「この教科書」
「うん」
「捨てないで取っておいてくれたんですね」
「ああ」
「そんなに私との思い出が大切だったんですか?」
急に嬉しそうになった。
嫌な流れだ。
「教材として使えると思って」
「先生?」
「冗談だ」
半分は。
そのつもりだった。
リリアがじっと俺を見ていたが。
やがて。
大切そうに教科書を抱えた。
そこへ。
カイルが飛び込んでくる。
「先生!」
またか。
最近。
カイルが走ってくる時は。
だいたい何か増える。
「今度は何だ?」
「王立中央学院から返事です!」
「早くないか?」
封筒を開く。
中には。
教師観察記録の追加報告があった。
その最後。
新しい相談。
カイルが読み上げる。
「『生徒本人へ話を聞き始めたところ、一部の生徒から教師に質問しづらいとの回答が多数寄せられました』」
リリアの手が。
止まった。
「……今日の私と同じ?」
「みたいですね」
カイルが続ける。
「それで」
俺は。
もう先が読めた。
「助言が欲しい?」
「はい」
リリアを見る。
リリアも。
俺を見る。
少し前まで。
自分が教えてもらう側だった七人の勇者。
その一人が今日。
初めて。
王立中央学院の教師へ返せる答えを持った。
「リリア」
「はい」
俺は手紙を渡した。
「返事、書いてみるか?」
リリアは。
驚いた顔をした。
それから。
今日使った古い教科書を見る。
赤い字で。
何度も。
《分からない》。
そう書かれたページを開き。
少し笑った。
「はい」
今度は。
迷わなかった。
「私が書きます」
勇者リリア。
教師見習い。
初めての。
他校教師への助言だった。




