↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/52

第四十二話 王立学院の教師、一日見学しただけで「分かりません」が十七個増える



翌朝、正門の前に立っていた王立中央学院の女性教師は、昨日とはずいぶん違って見えた。


制服も、細い眼鏡も同じだ。


けれど昨日の彼女は、カイルを連れ戻すために来た教師だった。今日は小さな鞄と一冊のノートだけを抱え、自分から頭を下げている。


「教師課程を、一日だけ見学させていただけませんか?」


俺は彼女をしばらく見た。


「見学だけ?」


「はい」


「入学するとは決めていない?」


「……はい」


少しだけ返事が遅れた。


正直でよろしい。


「なら、それでいいですよ」


「よろしいのですか?」


「見てから決めればいいでしょう」


女性教師は驚いた顔をした。


どうやら、もっと面倒な手続きや審査を想像していたらしい。


「ただし、一つだけ」


「はい」


「王立中央学院の教師だから特別扱いはしません」


「もちろんです」


「見学中に生徒から質問されるかもしれないし、教師見習いから意見を聞かれるかもしれない。それでも?」


彼女は一瞬だけ迷い、それから頷いた。


「お願いします」


そこで、俺はまだ彼女の名前を知らなかったことに気づいた。


昨日はカイルのことでそれどころではなかった。


「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね」


「あ……失礼しました」


女性は背筋を伸ばした。


「ユリア・レーヴェルです。王立中央学院で基礎魔術と魔法理論を担当しています」


「アレンです」


「存じています」


「そうですよね」


学院長なのだから。


横で聞いていたリリアが、小さく笑った。



教師課程の見学と聞いて。


ユリアは最初、大きな講堂へ案内されると思っていたらしい。


実際に俺が連れていったのは。


普通の教室だった。


十歳から十三歳までの生徒が十八人。


教師課程の見習いたちが四人。


黒板の前には、まだ誰も立っていない。


「……ここですか?」


「ここです」


「講義室ではなく?」


「今日は観察実習なので」


ユリアの眉が少し動いた。


「観察実習?」


「一人の生徒を一日見ます」


俺は机の上に用意してあった記録用紙を一枚渡した。


そこには。


《分かったこと》


《分からなかったこと》


二つの欄しかなかった。


ユリアは紙を裏返した。


何もない。


「これだけですか?」


「これだけです」


「成績、適性、魔力量、理解度などは?」


「必要だと思ったら書いても構いません」


「評価基準は?」


「ありません」


ユリアが黙った。


その顔を見て、近くにいた教師見習いが笑う。


「私も最初、同じ顔をしました」


「あなたも?」


「はい。何を書けば正解なのか分からなくて」


「では、今は?」


「分からないなら、分からないと書きます」


ユリアは紙を見る。


昨日。


カイルの《未発見才能記録》にあった言葉。


――まだ分からないこと。


それを思い出したのだろう。


「対象の生徒は?」


俺は教室の窓際を指した。


そこに、一人の少女が座っていた。


十二歳。


栗色の髪を肩のあたりで切り揃え、教科書を開きながら、なぜか机の端へ小さな木片を何個も並べている。


「彼女です」


「名前は?」


「本人に聞いてください」


「記録は?」


「本人に聞いてください」


「過去の成績は?」


「必要なら本人に聞いてください」


ユリアが俺を見る。


「先入観を与えないためですか?」


「それもあります」


「他にも?」


「俺が全部教えたら、観察する意味がないでしょう」


ユリアは。


少しだけ悔しそうな顔をした。


どうやら、一本取られたと思ったらしい。



一時間目。


算術。


少女は遅かった。


教師が黒板へ問題を書く。


他の生徒が次々と答えを書き始める中、少女だけは指を使い、木片を動かし、何度も数え直している。


ユリアの筆が動いた。


《計算速度が遅い》


その下に。


《基礎算術に課題》


さらに。


《反復練習が必要》


三つ書いた。


俺は何も言わない。


二時間目。


魔力制御。


少女はまた遅かった。


決められた大きさの光球を作る練習で、周囲が次々と成功させる中、彼女の光球だけは大きくなったり小さくなったりする。


ユリアの筆が動く。


《魔力制御が不安定》


《集中力に課題》


五つになった。


三時間目。


文章読解。


少女は教科書を読むのも遅かった。


一行読み。


止まり。


前の行へ戻る。


また読む。


ユリアの表情が少し険しくなる。


《読解速度が遅い》


六つ目。


昼休みになるころには。


ユリアの《分かったこと》の欄には、かなりの文字が並んでいた。


対して。


《分からなかったこと》。


空欄。


「早いですね」


俺が言うと。


ユリアが顔を上げた。


「何がです?」


「ずいぶん分かったんだなと思って」


「三時間見れば、ある程度は」


「そうですか」


それだけ言って。


俺は昼食へ向かった。


後ろから。


ものすごく納得していない視線を感じた。



昼休み。


食堂は混雑していた。


生徒。


教師。


教師見習い。


職員。


最近は人数が増えすぎて、時間をずらして使ってもかなり騒がしい。


ユリアが。


観察対象の少女を探している。


やがて。


食堂の隅に見つけた。


少女は食べていなかった。


その代わり。


配膳台の横にしゃがみ込み。


何かを数えている。


「何をしているのでしょう」


「本人に聞けば?」


俺が言う。


「そればかりですね」


「便利なので」


ユリアは少しむっとしながら。


少女へ近づいた。


「こんにちは」


少女が顔を上げる。


「こんにちは」


「私はユリア。今日、この学院を見学させてもらっています」


「王立中央学院の先生?」


「知っているの?」


「服が違うから」


少女は。


ユリアの制服を指した。


「ああ……そうね」


「なんで私のことずっと見てたの?」


ユリアが。


固まった。


気づかれていたらしい。


「観察実習で……」


「観察?」


「あなたがどんなふうに学んでいるのか、見せてもらっていました」


「ふーん」


少女は。


大して気にしていないようだった。


再び配膳台の下を見る。


そこには。


木箱がいくつも置いてある。


「何をしているの?」


ユリアが尋ねた。


「数えてる」


「何を?」


「今日使ったパン」


少女は木片を並べ始める。


朝の算術で使っていたものと。


同じ木片だった。


「こっちが食べた人。こっちが余った分。こっちが先生が追加で持っていった分」


「なぜそんなことを?」


「明日、足りなくなるから」


ユリアが首を傾げる。


少女は配膳台を見る。


「最近、生徒増えたでしょ?」


「ええ」


「食堂のおばちゃん、毎日ちょっと多めに作ってるけど、それでも足りなくなる日があるの」


少女は木片を移動させた。


「今日は昨日より二十三人多かった」


「……よく覚えているわね」


「覚えてないよ」


「え?」


「数えてるから」


木片を。


五個ずつの塊にしている。


五。


十。


十五。


二十。


そして余り。


朝。


計算問題を解くとき。


少女が何度もやっていた方法だった。


ユリアが。


紙を見る。


そこには。


《計算速度が遅い》


と書いてある。


「どうして、紙に数字を書かないの?」


「間違えるから」


少女は平然と答えた。


「木なら、動かした分が残るでしょ?」


「でも、それでは時間が」


「時間かかるよ」


あっさり認めた。


「でも」


少女は。


箱の中身を見る。


「食べ物の数、間違える方が嫌だから」


ユリアが。


黙った。


少女は続ける。


「昨日、十三個余った。今日は四個しか余らなかったから、明日はもう少し増やした方がいいと思う」


「それを毎日?」


「うん」


「誰かに頼まれたの?」


「ううん」


「なぜ?」


今度は。


少女が不思議そうな顔をした。


「足りなかったら困るから」


それだけだった。


ユリアの視線が。


自分の紙へ落ちる。


《基礎算術に課題》


その文字を。


長く見ていた。



午後。


魔力制御の続きがあった。


少女はやはり。


決められた大きさの光球を作れない。


大きくなり。


小さくなり。


また大きくなる。


教師が近づいた。


「今日はここまでにしてもいいぞ」


「もう一回」


「無理するな」


「違うの」


少女は光球を見ながら言った。


「昨日より、ちょっとだけ小さいのが作れるようになった」


ユリアが。


後ろで顔を上げる。


「決められた大きさではないわ」


思わず口にした。


少女が振り返った。


「うん」


「なら、成功ではないでしょう?」


「うん」


認める。


「でも昨日より近いよ?」


ユリアが。


また黙った。


「昨日はこれくらい」


少女が両手を大きく広げる。


「今日はこれくらい」


少し狭める。


「明日は、もっと小さくする」


「でも」


ユリアは。


そこで言葉を止めた。


何を言おうとしたのか。


たぶん。


成功できていない。


基準へ届いていない。


そう言おうとしたのだろう。


しかし。


少女は昨日の自分と比べている。


教師が決めた合格線ではなく。


自分が一歩進んだかどうかを見ている。


ユリアの紙には。


《魔力制御が不安定》


と書いてあった。


彼女は。


その文字の横へ。


初めて別の言葉を書いた。


《なぜ本人は続けられる?》


《分からなかったこと》。


一つ目だった。



夕方。


観察実習が終わった。


教室へ戻ると。


教師見習いたちが記録用紙を机に広げる。


俺は前に立った。


「では、今日分かったことを一つ」


順番に。


話してもらう。


「僕が見た生徒は、質問する前に一度必ず自分で試します」


「私の担当した子は、人前では答えません。でも二人きりだと質問が多いです」


「今日見た生徒は、失敗すると必ず同じ場所からやり直します。なぜそこを選ぶのかは、まだ分かりません」


そして。


ユリアの番になった。


最初。


彼女は何も言わなかった。


紙を見ている。


《計算速度が遅い》


《基礎算術に課題》


《反復練習が必要》


《魔力制御が不安定》


《集中力に課題》


《読解速度が遅い》


朝から書いた評価が。


いくつも並んでいる。


「ユリア先生?」


俺が呼ぶ。


「……はい」


「分かったことを一つ」


彼女は。


しばらく考えた。


そして。


「分かりません」


教室が静かになった。


「何が?」


「私が今日見ていた生徒が」


ユリアは言う。


「算術が苦手なのかどうか」


朝とは。


全く違う答えだった。


「問題を解く速度は遅いです。でも、食堂では毎日の食数を自分の方法で記録していました」


紙を見る。


「魔力制御が苦手なのかも、分かりません」


「規定の大きさの光球は作れません。でも、昨日の自分との差を正確に覚えていました」


さらに。


「文章を読むのが遅い理由も、私は知りません」


ユリアの声が。


少しずつ小さくなる。


「集中力がないと書きました。でも、何に集中しているのかを聞いていませんでした」


教師見習いたちは。


何も言わない。


笑う者も。


責める者もいない。


ユリアは。


《分かったこと》の欄を見た。


それから。


一本ずつ。


線を引いた。


消したわけではない。


横に。


新しい文字を書いていく。


《計算速度が遅い》


――なぜ遅いのか分からない。


《基礎算術に課題》


――どの部分が課題なのか分からない。


《反復練習が必要》


――本人に必要か確認していない。


《魔力制御が不安定》


――本人は少しずつ調整幅を縮めている。


《集中力に課題》


――何を見ているのか聞いていない。


《読解速度が遅い》


――理解度までは確認していない。


一つ。


また一つ。


《分からなかったこと》が増える。


やがて。


ユリアは。


数え始めた。


「……十七」


「何がです?」


「分からないことです」


俺が聞くと。


彼女は。


少しだけ笑った。


「一日見学しただけで」


紙いっぱいの文字を見せる。


「十七個も増えました」


「多いですね」


「はい」


「困りました?」


ユリアは。


考えた。


昨日までなら。


たぶん。


困ったと答えただろう。


しかし。


今日は違った。


「いいえ」


首を横に振る。


「少し」


そして。


自分でも意外そうに。


「嬉しいです」



実習が終わった後。


ユリアは。


観察していた少女のところへ向かった。


「今日はありがとう」


少女が首を傾げる。


「何が?」


「あなたを見せてもらったこと」


「ずっと見てただけだよ?」


「そうね」


ユリアは。


少し苦笑した。


「だから、明日はもう少し聞こうと思う」


「明日?」


少女が聞き返す。


俺も聞き返した。


「明日?」


ユリアが。


しまったという顔をした。


「……」


「一日だけの見学では?」


「その予定でした」


「でした?」


ユリアは。


眼鏡を押し上げる。


少しだけ。


顔が赤い。


「アレン学院長」


「はい」


「昨日、あなたは言いましたよね」


「何を?」


「教師が自分の教え方が正しいのか分からなくなったなら、学べばいいと」


「言いました」


「今日」


彼女は。


十七個の《分からない》が書かれた紙を持ち上げた。


「さらに分からなくなりました」


「それは大変ですね」


「誰のせいだと思っているんですか?」


「俺?」


「あなたです」


どうやら。


怒られた。


理不尽だと思う。


ユリアは鞄から。


新しい紙を出した。


昨日持っていたものではない。


教師課程の入学願書だった。


「昨日は」


彼女が言う。


「自分がここで何を学びたいのか、まだ分かりませんでした」


だから。


一日見学した。


そして今日。


一人の生徒を見ただけで。


十七個。


分からないことが増えた。


「今なら書けます」


ユリアは。


願書の一番下。


《学びたいこと》。


その欄へ。


ゆっくり書いた。


『生徒を、分かったつもりにならない方法』


それを。


俺に差し出す。


「教師課程への参加を希望します」


俺は願書を受け取った。


「まず話を聞きますよ」


「はい」


「現役教師でも特別扱いしません」


「はい」


「生徒に教えられることもあります」


「今日もう教えられました」


「かなり忙しいです」


「王立中央学院も忙しいです」


「宿題も出ます」


一瞬。


ユリアの顔が引きつった。


そこだけ嫌なのか。


「……量は?」


「人によります」


「具体的には?」


「分かりません」


ユリアが。


俺を睨む。


俺は笑った。


「今のは使い方が違いますね」


「分かってます」


少しだけ。


二人で笑った。


そのとき。


転移門の管理をしていた職員が。


こちらへ走ってきた。


「学院長!」


「今度は何だ」


最近。


この呼ばれ方をすると。


だいたい面倒な話が来る。


「王立中央学院から正式文書です」


「カイルの件?」


「違います」


職員が。


封筒を差し出した。


王立中央学院の紋章。


封蝋。


そして。


かなり分厚い。


俺が開く。


一枚目を読む。


二枚目。


三枚目。


途中で。


嫌な予感がした。


「何て?」


リリアが横から覗く。


俺は。


最後まで読む。


王立中央学院。


教師会議。


エルガ学院教師課程について。


正式な教育視察団を派遣したい。


それだけなら。


まだいい。


問題は。


人数だった。


「……三十二人」


「え?」


ユリアが固まる。


「王立中央学院から」


俺は文書を見直した。


「教師三十二人が、教師課程を視察したいそうです」


「三十二!?」


「あなた」


俺はユリアを見る。


「昨日、帰って何を話したんです?」


「私は何も!」


「本当に?」


「カイル君の《未発見才能記録》について少し話して、教師課程というものがあると……」


「十分話してるじゃないですか」


「でも三十二人も来るなんて聞いてません!」


その横で。


学院管理人形が。


静かに青く光った。


「来訪予定者」


「三十二名」


「教師課程見学希望として仮登録」


俺は。


嫌な予感しかしなかった。


昨日。


一人の首席生徒を連れ戻しに来た王立中央学院。


今日は。


一人の教師が学び直しに来た。


そして明日は。


三十二人の教師が。


教師の勉強を見に来るらしい。


うちの学院は。


いつから。


他校の先生まで教える学校になったんだろう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。