第四十二話 王立学院の教師、一日見学しただけで「分かりません」が十七個増える
翌朝、正門の前に立っていた王立中央学院の女性教師は、昨日とはずいぶん違って見えた。
制服も、細い眼鏡も同じだ。
けれど昨日の彼女は、カイルを連れ戻すために来た教師だった。今日は小さな鞄と一冊のノートだけを抱え、自分から頭を下げている。
「教師課程を、一日だけ見学させていただけませんか?」
俺は彼女をしばらく見た。
「見学だけ?」
「はい」
「入学するとは決めていない?」
「……はい」
少しだけ返事が遅れた。
正直でよろしい。
「なら、それでいいですよ」
「よろしいのですか?」
「見てから決めればいいでしょう」
女性教師は驚いた顔をした。
どうやら、もっと面倒な手続きや審査を想像していたらしい。
「ただし、一つだけ」
「はい」
「王立中央学院の教師だから特別扱いはしません」
「もちろんです」
「見学中に生徒から質問されるかもしれないし、教師見習いから意見を聞かれるかもしれない。それでも?」
彼女は一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「お願いします」
そこで、俺はまだ彼女の名前を知らなかったことに気づいた。
昨日はカイルのことでそれどころではなかった。
「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね」
「あ……失礼しました」
女性は背筋を伸ばした。
「ユリア・レーヴェルです。王立中央学院で基礎魔術と魔法理論を担当しています」
「アレンです」
「存じています」
「そうですよね」
学院長なのだから。
横で聞いていたリリアが、小さく笑った。
◆
教師課程の見学と聞いて。
ユリアは最初、大きな講堂へ案内されると思っていたらしい。
実際に俺が連れていったのは。
普通の教室だった。
十歳から十三歳までの生徒が十八人。
教師課程の見習いたちが四人。
黒板の前には、まだ誰も立っていない。
「……ここですか?」
「ここです」
「講義室ではなく?」
「今日は観察実習なので」
ユリアの眉が少し動いた。
「観察実習?」
「一人の生徒を一日見ます」
俺は机の上に用意してあった記録用紙を一枚渡した。
そこには。
《分かったこと》
《分からなかったこと》
二つの欄しかなかった。
ユリアは紙を裏返した。
何もない。
「これだけですか?」
「これだけです」
「成績、適性、魔力量、理解度などは?」
「必要だと思ったら書いても構いません」
「評価基準は?」
「ありません」
ユリアが黙った。
その顔を見て、近くにいた教師見習いが笑う。
「私も最初、同じ顔をしました」
「あなたも?」
「はい。何を書けば正解なのか分からなくて」
「では、今は?」
「分からないなら、分からないと書きます」
ユリアは紙を見る。
昨日。
カイルの《未発見才能記録》にあった言葉。
――まだ分からないこと。
それを思い出したのだろう。
「対象の生徒は?」
俺は教室の窓際を指した。
そこに、一人の少女が座っていた。
十二歳。
栗色の髪を肩のあたりで切り揃え、教科書を開きながら、なぜか机の端へ小さな木片を何個も並べている。
「彼女です」
「名前は?」
「本人に聞いてください」
「記録は?」
「本人に聞いてください」
「過去の成績は?」
「必要なら本人に聞いてください」
ユリアが俺を見る。
「先入観を与えないためですか?」
「それもあります」
「他にも?」
「俺が全部教えたら、観察する意味がないでしょう」
ユリアは。
少しだけ悔しそうな顔をした。
どうやら、一本取られたと思ったらしい。
◆
一時間目。
算術。
少女は遅かった。
教師が黒板へ問題を書く。
他の生徒が次々と答えを書き始める中、少女だけは指を使い、木片を動かし、何度も数え直している。
ユリアの筆が動いた。
《計算速度が遅い》
その下に。
《基礎算術に課題》
さらに。
《反復練習が必要》
三つ書いた。
俺は何も言わない。
二時間目。
魔力制御。
少女はまた遅かった。
決められた大きさの光球を作る練習で、周囲が次々と成功させる中、彼女の光球だけは大きくなったり小さくなったりする。
ユリアの筆が動く。
《魔力制御が不安定》
《集中力に課題》
五つになった。
三時間目。
文章読解。
少女は教科書を読むのも遅かった。
一行読み。
止まり。
前の行へ戻る。
また読む。
ユリアの表情が少し険しくなる。
《読解速度が遅い》
六つ目。
昼休みになるころには。
ユリアの《分かったこと》の欄には、かなりの文字が並んでいた。
対して。
《分からなかったこと》。
空欄。
「早いですね」
俺が言うと。
ユリアが顔を上げた。
「何がです?」
「ずいぶん分かったんだなと思って」
「三時間見れば、ある程度は」
「そうですか」
それだけ言って。
俺は昼食へ向かった。
後ろから。
ものすごく納得していない視線を感じた。
◆
昼休み。
食堂は混雑していた。
生徒。
教師。
教師見習い。
職員。
最近は人数が増えすぎて、時間をずらして使ってもかなり騒がしい。
ユリアが。
観察対象の少女を探している。
やがて。
食堂の隅に見つけた。
少女は食べていなかった。
その代わり。
配膳台の横にしゃがみ込み。
何かを数えている。
「何をしているのでしょう」
「本人に聞けば?」
俺が言う。
「そればかりですね」
「便利なので」
ユリアは少しむっとしながら。
少女へ近づいた。
「こんにちは」
少女が顔を上げる。
「こんにちは」
「私はユリア。今日、この学院を見学させてもらっています」
「王立中央学院の先生?」
「知っているの?」
「服が違うから」
少女は。
ユリアの制服を指した。
「ああ……そうね」
「なんで私のことずっと見てたの?」
ユリアが。
固まった。
気づかれていたらしい。
「観察実習で……」
「観察?」
「あなたがどんなふうに学んでいるのか、見せてもらっていました」
「ふーん」
少女は。
大して気にしていないようだった。
再び配膳台の下を見る。
そこには。
木箱がいくつも置いてある。
「何をしているの?」
ユリアが尋ねた。
「数えてる」
「何を?」
「今日使ったパン」
少女は木片を並べ始める。
朝の算術で使っていたものと。
同じ木片だった。
「こっちが食べた人。こっちが余った分。こっちが先生が追加で持っていった分」
「なぜそんなことを?」
「明日、足りなくなるから」
ユリアが首を傾げる。
少女は配膳台を見る。
「最近、生徒増えたでしょ?」
「ええ」
「食堂のおばちゃん、毎日ちょっと多めに作ってるけど、それでも足りなくなる日があるの」
少女は木片を移動させた。
「今日は昨日より二十三人多かった」
「……よく覚えているわね」
「覚えてないよ」
「え?」
「数えてるから」
木片を。
五個ずつの塊にしている。
五。
十。
十五。
二十。
そして余り。
朝。
計算問題を解くとき。
少女が何度もやっていた方法だった。
ユリアが。
紙を見る。
そこには。
《計算速度が遅い》
と書いてある。
「どうして、紙に数字を書かないの?」
「間違えるから」
少女は平然と答えた。
「木なら、動かした分が残るでしょ?」
「でも、それでは時間が」
「時間かかるよ」
あっさり認めた。
「でも」
少女は。
箱の中身を見る。
「食べ物の数、間違える方が嫌だから」
ユリアが。
黙った。
少女は続ける。
「昨日、十三個余った。今日は四個しか余らなかったから、明日はもう少し増やした方がいいと思う」
「それを毎日?」
「うん」
「誰かに頼まれたの?」
「ううん」
「なぜ?」
今度は。
少女が不思議そうな顔をした。
「足りなかったら困るから」
それだけだった。
ユリアの視線が。
自分の紙へ落ちる。
《基礎算術に課題》
その文字を。
長く見ていた。
◆
午後。
魔力制御の続きがあった。
少女はやはり。
決められた大きさの光球を作れない。
大きくなり。
小さくなり。
また大きくなる。
教師が近づいた。
「今日はここまでにしてもいいぞ」
「もう一回」
「無理するな」
「違うの」
少女は光球を見ながら言った。
「昨日より、ちょっとだけ小さいのが作れるようになった」
ユリアが。
後ろで顔を上げる。
「決められた大きさではないわ」
思わず口にした。
少女が振り返った。
「うん」
「なら、成功ではないでしょう?」
「うん」
認める。
「でも昨日より近いよ?」
ユリアが。
また黙った。
「昨日はこれくらい」
少女が両手を大きく広げる。
「今日はこれくらい」
少し狭める。
「明日は、もっと小さくする」
「でも」
ユリアは。
そこで言葉を止めた。
何を言おうとしたのか。
たぶん。
成功できていない。
基準へ届いていない。
そう言おうとしたのだろう。
しかし。
少女は昨日の自分と比べている。
教師が決めた合格線ではなく。
自分が一歩進んだかどうかを見ている。
ユリアの紙には。
《魔力制御が不安定》
と書いてあった。
彼女は。
その文字の横へ。
初めて別の言葉を書いた。
《なぜ本人は続けられる?》
《分からなかったこと》。
一つ目だった。
◆
夕方。
観察実習が終わった。
教室へ戻ると。
教師見習いたちが記録用紙を机に広げる。
俺は前に立った。
「では、今日分かったことを一つ」
順番に。
話してもらう。
「僕が見た生徒は、質問する前に一度必ず自分で試します」
「私の担当した子は、人前では答えません。でも二人きりだと質問が多いです」
「今日見た生徒は、失敗すると必ず同じ場所からやり直します。なぜそこを選ぶのかは、まだ分かりません」
そして。
ユリアの番になった。
最初。
彼女は何も言わなかった。
紙を見ている。
《計算速度が遅い》
《基礎算術に課題》
《反復練習が必要》
《魔力制御が不安定》
《集中力に課題》
《読解速度が遅い》
朝から書いた評価が。
いくつも並んでいる。
「ユリア先生?」
俺が呼ぶ。
「……はい」
「分かったことを一つ」
彼女は。
しばらく考えた。
そして。
「分かりません」
教室が静かになった。
「何が?」
「私が今日見ていた生徒が」
ユリアは言う。
「算術が苦手なのかどうか」
朝とは。
全く違う答えだった。
「問題を解く速度は遅いです。でも、食堂では毎日の食数を自分の方法で記録していました」
紙を見る。
「魔力制御が苦手なのかも、分かりません」
「規定の大きさの光球は作れません。でも、昨日の自分との差を正確に覚えていました」
さらに。
「文章を読むのが遅い理由も、私は知りません」
ユリアの声が。
少しずつ小さくなる。
「集中力がないと書きました。でも、何に集中しているのかを聞いていませんでした」
教師見習いたちは。
何も言わない。
笑う者も。
責める者もいない。
ユリアは。
《分かったこと》の欄を見た。
それから。
一本ずつ。
線を引いた。
消したわけではない。
横に。
新しい文字を書いていく。
《計算速度が遅い》
――なぜ遅いのか分からない。
《基礎算術に課題》
――どの部分が課題なのか分からない。
《反復練習が必要》
――本人に必要か確認していない。
《魔力制御が不安定》
――本人は少しずつ調整幅を縮めている。
《集中力に課題》
――何を見ているのか聞いていない。
《読解速度が遅い》
――理解度までは確認していない。
一つ。
また一つ。
《分からなかったこと》が増える。
やがて。
ユリアは。
数え始めた。
「……十七」
「何がです?」
「分からないことです」
俺が聞くと。
彼女は。
少しだけ笑った。
「一日見学しただけで」
紙いっぱいの文字を見せる。
「十七個も増えました」
「多いですね」
「はい」
「困りました?」
ユリアは。
考えた。
昨日までなら。
たぶん。
困ったと答えただろう。
しかし。
今日は違った。
「いいえ」
首を横に振る。
「少し」
そして。
自分でも意外そうに。
「嬉しいです」
◆
実習が終わった後。
ユリアは。
観察していた少女のところへ向かった。
「今日はありがとう」
少女が首を傾げる。
「何が?」
「あなたを見せてもらったこと」
「ずっと見てただけだよ?」
「そうね」
ユリアは。
少し苦笑した。
「だから、明日はもう少し聞こうと思う」
「明日?」
少女が聞き返す。
俺も聞き返した。
「明日?」
ユリアが。
しまったという顔をした。
「……」
「一日だけの見学では?」
「その予定でした」
「でした?」
ユリアは。
眼鏡を押し上げる。
少しだけ。
顔が赤い。
「アレン学院長」
「はい」
「昨日、あなたは言いましたよね」
「何を?」
「教師が自分の教え方が正しいのか分からなくなったなら、学べばいいと」
「言いました」
「今日」
彼女は。
十七個の《分からない》が書かれた紙を持ち上げた。
「さらに分からなくなりました」
「それは大変ですね」
「誰のせいだと思っているんですか?」
「俺?」
「あなたです」
どうやら。
怒られた。
理不尽だと思う。
ユリアは鞄から。
新しい紙を出した。
昨日持っていたものではない。
教師課程の入学願書だった。
「昨日は」
彼女が言う。
「自分がここで何を学びたいのか、まだ分かりませんでした」
だから。
一日見学した。
そして今日。
一人の生徒を見ただけで。
十七個。
分からないことが増えた。
「今なら書けます」
ユリアは。
願書の一番下。
《学びたいこと》。
その欄へ。
ゆっくり書いた。
『生徒を、分かったつもりにならない方法』
それを。
俺に差し出す。
「教師課程への参加を希望します」
俺は願書を受け取った。
「まず話を聞きますよ」
「はい」
「現役教師でも特別扱いしません」
「はい」
「生徒に教えられることもあります」
「今日もう教えられました」
「かなり忙しいです」
「王立中央学院も忙しいです」
「宿題も出ます」
一瞬。
ユリアの顔が引きつった。
そこだけ嫌なのか。
「……量は?」
「人によります」
「具体的には?」
「分かりません」
ユリアが。
俺を睨む。
俺は笑った。
「今のは使い方が違いますね」
「分かってます」
少しだけ。
二人で笑った。
そのとき。
転移門の管理をしていた職員が。
こちらへ走ってきた。
「学院長!」
「今度は何だ」
最近。
この呼ばれ方をすると。
だいたい面倒な話が来る。
「王立中央学院から正式文書です」
「カイルの件?」
「違います」
職員が。
封筒を差し出した。
王立中央学院の紋章。
封蝋。
そして。
かなり分厚い。
俺が開く。
一枚目を読む。
二枚目。
三枚目。
途中で。
嫌な予感がした。
「何て?」
リリアが横から覗く。
俺は。
最後まで読む。
王立中央学院。
教師会議。
エルガ学院教師課程について。
正式な教育視察団を派遣したい。
それだけなら。
まだいい。
問題は。
人数だった。
「……三十二人」
「え?」
ユリアが固まる。
「王立中央学院から」
俺は文書を見直した。
「教師三十二人が、教師課程を視察したいそうです」
「三十二!?」
「あなた」
俺はユリアを見る。
「昨日、帰って何を話したんです?」
「私は何も!」
「本当に?」
「カイル君の《未発見才能記録》について少し話して、教師課程というものがあると……」
「十分話してるじゃないですか」
「でも三十二人も来るなんて聞いてません!」
その横で。
学院管理人形が。
静かに青く光った。
「来訪予定者」
「三十二名」
「教師課程見学希望として仮登録」
俺は。
嫌な予感しかしなかった。
昨日。
一人の首席生徒を連れ戻しに来た王立中央学院。
今日は。
一人の教師が学び直しに来た。
そして明日は。
三十二人の教師が。
教師の勉強を見に来るらしい。
うちの学院は。
いつから。
他校の先生まで教える学校になったんだろう。




