壊れた男と壊した女
朔良の“力”は、触れている間だけ相手の思考・行動をコントロール出来る。
昴が辛い時、朔良が気づけば、もしくは昴が助けを求めれば、“力”で自傷行為を止められる。ただ、昴が助けを求める保証もない上、半永久的に朔良が近くにいなくてはならず、根本的な治療とは言えなかった。
それでも――
朔良は決意した。
昴のそばにい続け、彼の心を守るために力を使い続けよう。
ネガティブな思考を消し、彼自身を好きになれるように――
この先楽しい人生を送れるように――
昴は朔良の話を全て聞き、静かに言った。
「ありがとう、朔良」
昴は朔良の頬に触れ、優しく微笑んだ。
それから朔良は、昴のそばにいる時間を増やした。
手を繋ぎ、寄り添い、触れ続けた。
“ネガティブな思考を消して”
“自分を好きになれるようにして”
朔良は力を惜しみなく使い続けた。
やがて昴の自傷行為は止まり、手首の傷も少しずつ治っていった。
2人は穏やかな日常を取り戻した――かに見えた。
昴は、以前より、夜になると窓の外をじっと見つめることが増えた。
「何見てるの?」と聞くと、
「......星の位置を確認してるだけさ」と彼は笑った。
けれど、それは朔良の知る「彼」の笑顔ではなかった。
朔良の胸の奥で、正体不明のざわめきが広がり始めた。
まるで、水に落とされた絵の具のように。
けれど、それが何なのかまだ言葉に出来なかった。
その頃、朔良の周囲では別の不穏な影が蠢いていた。
中学時代の元カレ・野上圭との偶然の再会。
復縁を拒む朔良に対し、野上の執着は常軌を逸していた。
門扉の前に立つ影、深夜に届く無言の着信、背後で光るフラッシュ。
本来なら、恐怖に身を震わせる事態だ。
しかし、この時の朔良には、外側から迫るストーカー被害に割く余裕など、なかった。
ある日、昴がカサカサと音を立てるビニール袋を提げて帰宅した。
「朔良、見てくれ。美しいナイフを見つけたんだ」
彼が袋から取り出したのは、背に繊細な蜂の装飾が施されたナイフだった。彼はライヨールナイフというフランス製のナイフだ、と朔良に教えた。
磨きあげられた鋼が、部屋の灯りを冷たく跳ね返す。
だが、異常なのはその数だった。
半透明の袋の中には、全く同じナイフが、重なり合うようにして大量に詰め込まれていた。
「......こんなにたくさん、何に使うの?」
朔良の声はかすかに震えていた。
それに対し、昴は陶酔したような瞳で、刃の鋭利な曲線をなぞる。
「時が来たら、教えるさ」
その言葉が、約束なのか、あるいは宣告なのか。
朔良の胸のざわめきは、もはや無視できないほどの鼓動となっていた。
――見なかったことにしたかった。
変わってしまった彼も。
変えてしまったのが私かもしれないってことも。
そのわずか1か月後のことだった。
朔良は仕事から帰ってきて、ソファで寝転がりながらのんびりしていた。
「ただいま、朔良」
昴が明るい声で言った。
何かいいことでもあったのかな、と朔良は嬉しく思った。
「おかえり」
ソファから起き上がり、笑顔で振り返ったが――
その笑顔は一瞬で消えた。
昴のシャツが、真っ赤に染まっていた。
「どうしたの...それ?」
「これ?これは...僕が罰を下した者の血だよ」
昴は楽しそうに微笑み、白い歯を見せた。
「どういう事...?殺したの?」
朔良は込みあがる色んな感情を押し殺しながら、震える声で尋ねた。
「あぁ、君に付きまとっていた男。野上圭だったかな」
昴は恐ろしいほどに平然とした顔で言った。野上圭は朔良に付きまとっていたストーカーの名であった。
「彼に、僕から最高に美しい“芸術”をプレゼントしたんだ。まぁ、僕の芸術をもってしても、警察はまだ僕に辿りつけないさ」
昴の目は、まるで新しい玩具を手に入れた子供のように輝いていた。
朔良はその夜、頭がぐちゃぐちゃになるほど考え続けた。
昴は...
私が“力”を使う前の昴は...
人の痛みが分からず、殺しを楽しむような冷徹な人間ではなかった。
苦しみながらも人の痛みが分かる人だった。
優しくて、温かい人だった。
それを変えてしまったのは、私の“力”。
確かに、彼は明るくなった...彼は彼自身を好きになれた...
けど、彼の人格は変わってしまった。手をつけられないほどに...
彼を変えてしまったのは私だ。
彼を殺人鬼にしてしまったのは私だ...
人を助けるため、人を幸せにするために使うと誓ったこの力は...
昴を...最愛の人を...殺人鬼に変えてしまった。
私は、殺人者だ。
人殺しをやめてほしい、と朔良は昴に向かって何度も言おうとした。
だがその言葉は彼女自身を苦しめた。人殺しにしたのは自分自身であり、彼はその被害者である、と。
昴を警察に突き出すか...
いや、法律は昴を裁けても、私は裁けない。
では私が自殺でもするか...
いや、昴から目を背けて逃げるなんて、身勝手すぎる。
ではもう一度私の“力”を使って...
愛する人をこんなにも変えてしまったのに?
私が好きだった彼を、もっと彼ではなくしてしまうかもしれないのに?
朔良は考え続けた。何時間も。何日も。
だが、どの選択も正しいと思えなかった。
昴だけを地獄に落とすことも、朔良だけが地獄に落ちることも、どちらも間違っている気がした。
そして朔良はーー
一つの結論にたどり着いた。
自分が引き起こした罪の、昴の罪の、“共犯者”になろう。
彼と共に罪を背負い、彼と共に地獄へ行こう。




