第45話:帳面にない縁
発つ前の晩、マリカが炉の前に座らなかった。
戸口に立って外を見ていた。
「マリカ」
「……あのさ」
その子は、振り向かなかった。
「あたし、残る」
わたしは、何も言わなかった。
たぶん、三日ほど前から、わかっていた。
この子は、テオと畑に出るようになった。サビナの後ろについて歩くようになった。峠から来る荷を、勝手に数えるようになった。
「あたし、ずっと『あたしが行く』って言ってたじゃん」
「言っておりました」
「行くって、かっこいいと思ってたんだよね」
マリカは、そこでやっと、こっちを向いた。
「でも、行くのは一回で終わるんだ。着いたら、もう行けない」
「……」
「ここ、ロザ様が帰ったら、木札の書き方わかる人いなくなる。サビナ婆さんは書かないし、あの数える人は書かないって決めてるし、テオはまだ字が下手だし」
その子は、自分の指を見た。
「だから、あたしは、居る」
わたしは、立ち上がって、その子の前に行った。
「マリカ」
「泣かないでよ。あたしが泣くみたいになるじゃん」
「泣いておりません」
「泣いてるって」
わたしは、その子の手を取った。
固い手だった。去年はじめて会ったときは、もっと小さかった気がする。
「一つだけ、お願いがございます」
「なに」
「困ったら、書いてください。誰と誰が、どういう理由で。それだけでよろしいので」
「わかってる」
「それから」
わたしは、その手を、両手で包んだ。
「結べない縁は、結べないと言ってよろしいのです」
マリカの顔が、くしゃりと歪んだ。
「……知ってる。ロザ様の口癖だもん」
*
峠を越えるとき、一度だけ振り返った。
谷は朝の靄の下にあった。
煙が、七つ。
数えたのは来たときと同じだった。それでも、まるで違うものに見えた。
*
辺境に着いたのはそれから半月後の夕方だった。
門のところにハンナが立っていた。
たぶん、朝から立っていたのだと思う。
「お嬢様」
「ハンナ。ただいま戻りました」
「……お帰りなさいませ」
その人は、それだけ言って、わたしの荷を取った。
取ってから袖で目を押さえた。
「旦那様は、東の畑でございます。羊が、また増えました」
「白いのですか」
「よくご存じで」
*
部屋は毎朝掃かれていた。
机の上に束が置いてあった。
わたしが谷から出した文の返しが、ここへ届いていたのだ。届いたけれど、渡す先がなかった。
一枚、二枚、と数えた。
八枚。
峠を越える便はひと月に一度あるかないかだ。五月ばかりで八枚なら、便があるたびに出したことになる。
わたしは、それを胸に抱えて、しばらく座っていた。
抽斗が少し開いていた。
閉め切らないのは、この人の癖だ。剣も扉も、いつも少しだけ開いている。
わたしは、閉めようとして、手を止めた。
中に紙が入っていた。
四つ折りの同じ形の紙。
一枚ではなかった。
*
十七枚あった。
一枚めを開いた。
『雪が早い。峠は無理だと使いが言う。この文は出さない』
二枚めを開いた。
『市の帳面、今日で百四十。お前が始めたものが、お前のいないところで増えていく。妙な気分だ』
三枚めを開いた。
『レオノーラが、南の字の帳面を三冊寄越した。読める者がいないので、俺が預かっている。字が読めないのに預かるのは、どういうことかと思う』
四枚め。
『今日は、書くことがない』
それだけだった。それだけ書いて、この人は、これを畳んで抽斗に入れたのだ。
*
背中で足音がした。
わたしは、振り返らなかった。振り返れないほど、目が滲んでいた。
「……見たな」
「見ました」
「捨てるつもりだった」
「捨てておいでではありません。畳んでおありでした」
足音が止まった。
「ロザ」
「はい」
「読むな」
わたしは、十七枚を膝に抱え直した。
そして、はっきり言った。
「読みます」
「……」
「あなたは、以前、わたしに釣書を差し出してくださいました」
わたしは、そこではじめて振り返った。
「あのとき、わたしは読みませんでした。読まずに結ぶことが、わたしの答えでしたので」
「……ああ」
「今度は、読みます」
アルヴィン様は、明後日のほうを向いた。
耳が赤かった。
「……好きにしろ」
「好きにいたします」
わたしは、一枚めから、また読み直した。
読まれるつもりのなかった字は、どれも少しだけ丸かった。
*
その夜、市の帳面を繰った。
今日で百六十一。
名前と、誰と誰が、どういう理由で。それだけが並んでいる。
イーゼル谷の名も、三十ばかり入っていた。
わたしは、そこに何も足さなかった。数を足したくなる指を、一度だけ握って、やめた。
——わたしは、もう、王家の縁は結びません。
あの日、祭壇の上でそう思った。
この土地の縁なら、いくらでも。そうも思った。
半月歩いて、夏をひとつ谷で越して、また半月歩いて、いまもう一つ知っている。
帳面に書かない縁もあるのだ。
サビナが三十年覚えていた七十四人の中に、帰らなかった子が入っていたように。
書かなかったから、あの人は忘れなかった。
*
秋の終わりに峠から荷が来た。
その中に、書状が一通あった。
宛名を見て、わたしは手を止めた。
——イーゼル谷 縁定め マリカ どの
わたし宛では、なかった。
差出人の名は、どこにも書かれていない。
裏返しても、無かった。
わたしは、それを灯りにかざした。かざしてから、やめた。
読むのは、わたしの仕事ではない。
わたしは、その一通を、明日の峠の便に載せる荷の、いちばん上に置いた。
第三部、これで一区切りです。
「あたしが行く」と言い張っていた子が、「行くのは一回で終わる。着いたら、もう行けない」と気づいて、残ります。行くのではなく、居る。この子の独り立ちを、どういう形にするかは第二部の終わりからずっと考えていて、最後にこの形に落ちました。帳面に名前が無かった子が、人の名前を書く側に回ります。
抽斗を閉め切らないのは、この人の癖です。剣も扉も、いつも少しだけ開いている。出さなかった手紙が十七枚あって、四枚めには「今日は、書くことがない」とだけ書いてあります。それだけ書いて畳んで、抽斗に入れた人です。
第二部の終わりで、ロザリンドは釣書を読みませんでした。読まずに結ぶことが、あのときの答えだったからです。今度は読みます。同じ画で、逆の動きです。
帳面に書かない縁もある、というのが、この部でこの人が手に入れたものです。サビナが三十年覚えていた七十四人の中に、帰らなかった子がずっと入っていました。書かなかったから、忘れなかった。
最後の一通は、ロザリンド宛ではありません。差出人の名もありません。読むのは、あの人の仕事ではないので、明日の峠の便のいちばん上に置きました。
その先は、もう少し先で。




