第44話:値札を外す
秋の初めに市の使いが峠を越えてきた。
木札を三十枚。革の袋に入れて。
一枚ずつ名前が焼き込んである。イーゼル谷、と彫った下に名。数はどこにも無い。
サビナは、その袋を膝に置いたまま、しばらく開けなかった。
「……重いね」
「三十枚で、そのくらいでございます」
「そういう意味じゃないよ」
*
ミレンの木札だけは、王都へ送った。
塩問屋の主は、訴えを取り下げた。取り下げる代わりに、谷の塩を年に二度、市を通して買う。それだけだ。
書付にはこう書いた。
——ミレン、イーゼル谷。ヴェルンフェルトの市、これを請け合う。
理由の欄にはこうある。
——塩を売る先を探して、谷を出たため。
テオは、その写しを三日持ち歩いて、四日目に、ようやく手を離した。
*
「お嬢さん」
秋の風が出た日、サビナが炉の前で言った。
「あたしは、あと何年かだ」
「サビナ様」
「見りゃわかるだろ。指が、去年より遅い」
その人は、自分の手を開いて、閉じた。
「数え役ってのは、覚える器だよ。器が割れたら、中身は残らない」
「……」
「見習いを取れって、みんな言うんだ。でもね」
サビナは、火を見た。
「覚えるってのは、教わって身につくもんじゃない。三十年、同じ谷を見てないと、去年と今年の差がわからない」
*
わたしは、その夜、沢の石へ下りた。
ヴァレンティン様は、いつもの場所にいた。
もう荷も人も通らない時刻に、それでも、そこに座っていた。
「ヴァレンティン様」
「縁定め殿」
「ひとつ、縁のお話をしてもよろしいですか」
その人の指が、止まった。
*
「この谷には、数え役がおります」
「サビナ殿でございますな」
「はい。その方が、老いておいでです」
「存じております。今年に入って、三度、数え直しをしておられます。去年はございませんでした」
わたしは、少し、笑ってしまった。
この人は、そういうところを見ている。
「後を継ぐ方が、おりません」
「……」
「ヴァレンティン様。この谷の荷と人と羊を、三月かけて数えた方が、ひとりだけおいでです」
その人は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「私に、値のつかないものを数えろと」
「はい」
「私は、数えれば値をつける男でございます。四十三の家門を買った男です。あなたはそれを、いちばんよくご存じのはずだ」
「存じております」
わたしは、その人の隣の石に座った。
「ですから、条件がございます」
「値をつけずに、数えてください」
沢の音だけがしばらく続いた。
「……できましょうか」
「できるかどうかは、存じません」
「無責任なことをおっしゃる」
「はい」
わたしは、水を見ていた。
「ですが、あなたは三月、数えて、書きませんでした。書けば買ってしまうから書かなかったと、ご自分でおっしゃいました」
「申しました」
「値をつけずに数えることが、できない方は、そもそも、そこで悩みません」
その人が、袖の中で腕を組んだ。
「橋の上で、私は申し上げましたな」
「はい」
「わたしは、あなたの縁は結べません。あなたが、まだ自分に値をつけているうちは——と」
「申しました」
「では、いま、私に値はついておりますか」
わたしは、その人を見た。
外套は傷んでいた。靴は割れていた。国も権もない。買うものも売るものもない。
襟だけがきちんと合わせてある。
「ついておりません」
「……そうでございますか」
「ヴァレンティン様」
わたしは、膝に手を置いて、背を伸ばした。
「——この縁なら、結べます」
*
その人は、長いあいだ動かなかった。
やがて、片手で顔を覆って、少しだけ肩を揺らした。
笑ったのだと気づくのに間があった。
「……面白い」
四度、この人はその言葉でわたしの背筋を冷やしてきた。
橋の上でも広間でも物見台でも。
五度目のそれはまるで温度が違った。
「面白い。実に。——値のつかないものを数える役目に、私が就く」
「お嫌でしたら」
「嫌ではございません」
その人は、顔から手を離した。
目が赤かった。
「私は、四十を過ぎて、はじめて雇われました。給金の話をしていない雇い口は、生まれてはじめてでございます」
*
翌日、サビナの前へ連れて行った。
その人は、婆さんの前で膝をついて、こう言った。
「私は、覚えるのが速うございます。ですが、忘れるのも速い。ですから、書かずに済むまで、何度でもお訊きします」
サビナは、その人を上から下まで見た。
「あんた、王都の人間かい」
「もう、どこの人間でもございません」
「ふん」
その人は、鍋の匙を、ヴァレンティン様の手に押しつけた。
「じゃあ、まず、これを混ぜな。話はそれからだ」
*
その月のうちに、市から便りが二度来た。
レオノーラ様の書付には、こうあった。
『谷の荷は、市で三番めに扱いが多うございますわ。木札は増やしますの。それと、わたくしの家の書庫の帳面三冊、峠を越えさせますわ。読める人がふたりになりましたでしょう』
もう一通は、王都からだった。
差出人はオルフェウス様だった。
縁務寮の廃止が評定を通ったという。短い文だった。
最後の一行だけこうあった。
『お前の名は、国史から外させた。そのほうがいいのだろう』
わたしは、その紙を、灯りにかざした。
——そのほうが、いいのです。
あの人は、いつも、少し遅れて正しいことを言う。
第二部の第二十八話でロザリンドは「わたしは、あなたの縁は、結べません。あなたが、まだ自分に値をつけているうちは」と言って、ヴァレンティンを見送りました。あの条件が、この回で満たされます。
結ぶ相手は、人ではなく役目でした。谷には数え役がいて、その人が老いていて、後継がいません。そして三月かけて谷の荷と人と羊を数えて、書かなかった男がひとりいます。
「値をつけずに、数えてください」が、この人に出せる唯一の条件だと思っていました。値をつけずに数えることができない人は、そもそもそこで悩まないからです。
「面白い」は、これで五度目です。言葉は同じで、温度だけを変えました。給金の話をしていない雇い口が生まれてはじめてだ、というのが、この人の四十数年です。
鍋の匙を押しつけられるところまで書いて、この人の話は終わりです。
オルフェウスからの短い便りは、復縁の話ではありません。この人はいつも、少し遅れて正しいことを言います。




