第43話:讃えた者
翌朝、アンゼルム様は谷筋の中ほどを指した。
「あちらで、お話ししとうございます」
そこは、名前のない場所だった。
畑にも家にもならない岩と草の窪みだ。谷の者は「あそこ」としか呼ばない。
「地図に載っていない土地の、名の無い場所です」
その人は、そこへ卓を運ばせた。
「私は、国の権の話をいたします。この国のどこでもない場所でするのが、いちばん正しいように思いました」
*
卓の上に国史の草稿が置かれた。
その隣に、わたしは市の帳面の写しを置いた。
「縁定め様。もう一度、申し上げます」
その人は、いつもの熱を無理に抑えていた。
「辺境伯の帳面に人の身元を載せ、市がそれを請け合う。これは、王国の権の一部を、辺境が持つということでございます」
「そうなります」
「認めれば、他の領も真似をいたします。二十年で、王国は帳面の寄せ集めになります」
「なるかもしれません」
「お認めになる」
「はい」
その人は、両手を卓についた。
「では、なぜ」
「アンゼルム様のご懸念は、正しいのです。ですから、正しいところから、順にお答えいたします」
「一つ。この谷は、三十年前から王国の帳面に載っておりません」
「存じております」
「載っていない三十年のあいだ、王国はこの谷から一枚の畑も、一頭の羊も、一人の兵も得ておりません。守ってもおりません」
「……はい」
「では、いま辺境の帳面に載ることで、王国は何を失いますか」
その人は、答えなかった。
「二つ。市の帳面は、数を書きません。持ち高も、人数も、羊も。ですから、あの帳面から税は取れません。兵も出せません」
「税が取れぬ帳面に、何の意味が」
「身元です」
わたしは、市の帳面の写しを、その人のほうへ滑らせた。
「意味は、それだけでございます」
*
アンゼルム様は、写しを見た。
名前。誰と誰が。どういう理由で。
三つしか無い。
「……これでは、何も管理できません」
「はい」
「何も」
「はい。管理できません。管理しないための帳面ですので」
その人は、顔を上げた。
「縁定め様。あなたは、私の寮を否定しておいでですか」
「いいえ」
わたしは、首を振った。
「否定はいたしません。ただ、あなたは、わたしを過大にお読みです」
「過大」
「はい。第一条を、もう一度お読みいただけますか」
その人は、草稿を開いた。
美しい字がそこにあった。
「——縁定めロザリンドの筆に、誤りなし」
読み上げて、その人は少し胸を張った。
「四年ぶんを読みました。誤りは、一つもございませんでした」
「ございます」
*
わたしは、書記官のほうを見た。
「寮の束から、二つお出しいただけますか。一つは、四年前のリューベルン同盟婚の添状。もう一つは、三十年前の、南嶺の道の普請の書付」
「……普請の書付まで、写しておりますか」
アンゼルム様が、書記官に聞いた。
「写しております。旦那様のご指示で、書庫のものは残らず」
「……そうか」
その人は、笑おうとして、失敗した。
「私が、残らず写せと申しました」
*
三枚が卓に並んだ。
一枚めは、三十年前の数え書きだった。
家二十四。人九十一。羊百六十。井戸の深さまで書いてある。几帳面な字だ。
末尾に署名がある。
——書記 コンラート・キルヒ
二枚めは、同じ三十年前の別の紙。
——右、先例に照らし、旧に復さず
署名は無い。
三枚めは、四年前の添状だった。
わたしの字で、一行。その下に、別の筆で、一行。
——右、先例に照らし、旧に復さず
わたしは、三枚を、少しずつずらして重ねた。
そして、卓から手を引いた。
何も、言わなかった。
*
アンゼルム様が、三枚を見ている。
長かった。
風が旗の無い谷を吹いていた。
「……これは」
その人の指が、二枚めの上で止まった。
「父の、字です」
「……」
「わかります。私は、この字で育ちましたので」
指が三枚めへ移った。
「こちらは、晩年の。……手が、少し重くなってからの字だ」
「アンゼルム様」
「三十年前、父は二十五、六です。数え書きは、父が書いた。そして、旧に復さずも、父が書いた」
その人は、卓についた手を、握った。
「命じたのは、父ではありません。書付を書くのは、いつでも下の者ですから」
「はい」
「ですが、四年前は」
声が、掠れた。
「四年前、父は筆頭書記官です。もう、誰にも命じられておりません」
わたしは、その人が言い終わるまで、待った。
「アンゼルム様。わたしは、この三枚について、何も申しません」
「……なぜです」
「わたしがここで何かを申せば、それも先例になりますから」
その人は、はじめて、声を上げて笑った。
笑って、すぐに顔を歪めた。
「……そうですな」
「一つだけ、申し上げます」
わたしは、卓の向こうを見た。
「あなたは、人を、功績で測っておいでです」
「はい」
「宰相バルドウィンは、人を家格で測りました。ヴァレンティン様は、値で測りました」
わたしは、そこで一度、息を継いだ。
「——同じやり方です」
*
その人は、しばらく、動かなかった。
「私は」
やっと、そう言った。
「私は、父のようになりたくなかったのです」
「存じております」
「誰も決めていないのに決まる。決めた者がいないから、誰も詫びない。あれを、二度と起こさせないために、私は全部を書いて、全部を先例にしようとしました」
「はい」
「その先例の名で、父は谷を埋めておりました」
その人は、草稿を閉じた。
閉じて、しばらく手を置いた。
「アルシェット卿」
はじめて、そう呼ばれた。
制度の名だった。この人は最後まで、わたしを役目で呼ぶ人だった。
「寮は、畳みます」
「アンゼルム様」
「畳まねばなりません。第一条が立たぬ以上、その下の条は、すべて根が無い」
その人は、立ち上がった。
「私は、嘘が書けません。それだけが、私の取り柄でした」
*
馬に鞍を置きながら、その人は一度だけこちらを向いた。
「縁定め様」
役目の名に戻っていた。
「私の縁は、結べませんか」
わたしは、その人を見た。
四年ぶんの余白を埋めた人だ。夜ごとひとりで唸った人だ。悪意も賄賂も私腹も、一つも無かった。
それでも。
「結べません」
わたしは、はっきり言った。
「あなたが、人を功績で数えているうちは」
その人は、うなずいた。
うなずいて、馬に乗った。
「……では、数え方を、変えてまいります」
第一部で宰相を詰めたのは王都の評定でした。第二部でヴァレンティンを詰めたのは国境の橋でした。今回は、地図に載っていない谷の、名前も無い窪みです。この国のどこでもない場所で国の権の話をするのが正しいと、この人自身が選びました。
ロザリンドは、暴きません。三枚をずらして重ねて、手を引くだけです。アンゼルムは、父の字がわかります。その字で育ったからです。
三十年前、二十五、六の書記が谷を数えて、必ず伝えると言って帰り、そして「旧に復さず」を自分の手で書きました。命じたのは上役です。書付を書くのはいつでも下の者ですから。ただ、四年前は違います。筆頭書記官には、命じる者がいません。
「私は、父のようになりたくなかったのです」という人が、父の使った言葉で国を整えようとしていた。ここがこの部でいちばん書きたかったところでした。
宰相は家格で、ヴァレンティンは値で、この人は功績で人を測りました。三人を一直線に並べる台詞を、ようやく置けました。
ロザリンドは救いません。第二部で「自分に値をつけているうちは」と言った人が、今度は「人を功績で数えているうちは」と言います。
「では、数え方を、変えてまいります」で、この人は峠を越えていきます。




