第42話:この縁なら、結べます
翌朝、わたしは谷の者を炉端に集めてもらった。
十九軒から、二十人ほどが来た。サビナが真ん中に座り、テオが端に座った。マリカは戸口に立った。
「はじめに、申し上げます」
わたしは、膝をついた。
「この谷を、国の帳面に戻す話は、いたしません」
*
誰かが、息を吐いた。
「戻せば、税と兵が来ます。十年免ずると言われても、十年後にまた誰かが決めます。名前を書かない誰かが」
サビナは、何も言わない。ただ、こちらを見ている。
「ですから、別の帳面のお話をいたします」
わたしは、懐から四つ折りの紙を出した。
辺境から届いた、あの紙だ。
「ここに、こう書いてございます。——市の帳面、止めていない。今日で百二十七」
*
「国境の市に、帳面が一冊ございます」
わたしは、地面に指で四角を描いた。
「王国のものではありません。ヴェルンフェルト辺境伯の帳面です。書いてあるのは三つだけ。名前と、誰と誰が、どういう理由で」
「それだけかい」
「それだけです。持ち高も、羊の数も、畑の枚数も書きません」
「なんで」
テオが、小さく聞いた。
「税を取るための帳面ではないからです」
わたしは、その子を見た。
「税は、数を書いた帳面からしか取れません。兵も同じです。何人いるかを書いていない帳面から、七人は出せません」
サビナが、指で膝を叩いていた。
「その帳面に載ると、どうなるんだい」
「市で買えます。売れます。宿にも泊まれます。そして——雇われます」
「雇われる」
「二年前から、あの市の木札は、ガルディアの商人も通しております。塩問屋なら、なおさら通します」
わたしは、そこで一度、息を継いだ。
「ミレンの名を、そこに書きます」
*
テオの顔が、上がった。
「姉ちゃんの」
「ミレン。イーゼル谷。国境の市が身元を請け合う。……それだけです。谷が国に戻ったことにはなりません」
「でも、姉ちゃんは名前を騙って」
「そこを、結びます」
わたしは、地面にもう一つ、四角を描いた。
「王都の塩問屋は、二年前から塩の仕入れ先を探しております。だから、ヘルガという名の娘を雇いました。谷の生まれだと知らずに、塩の話ができる娘を雇ったのです」
書記官が、写しを繰る音がした。
「この谷は、三十年、塩の出し先がございません」
サビナの指が、止まった。
「……ああ」
「塩問屋には、こう申し上げます。訴えを起こせば、二年ぶんの給金は戻るかもしれません。ですが、塩は入りません」
「入れると」
「入ります。市を通して。あの娘の名で」
*
炉の火が、静かに燃えていた。
「これは、施しではございません」
わたしは、二つの四角のあいだに、線を引いた。
「借りた名を、消すのではありません。借りた名を、本当の名にするだけの理由を、あいだに置くのです。塩問屋には塩が入る。谷には出し先ができる。あの娘には、名が戻る」
「道は」
サビナが、聞いた。
「南嶺の道は、どうするんだい」
「架けません」
わたしは、はっきり言った。
「架ければ、国が来ます。荷は、峠を人と馬で越えます。手間はかかりますが、三十年、あなた方がしてきたやり方のままです」
*
長い沈黙があった。
サビナは、目を閉じていた。
「お嬢さん」
「はい」
「あたしは、書かないと決めた女だよ」
「存じております」
「その帳面に、あたしらの名前を書けって言うのかい」
「はい」
「三十年、書かずに来た」
「存じております」
わたしは、頭を下げなかった。下げたまま帰るなと言われていた。
「サビナ様。書かないことは、この谷を三十年守りました。そのやり方を、わたしは否定いたしません」
「じゃあ」
「ですが、書かないことは、出て行った子を一人も連れ戻せませんでした」
サビナの目が、開いた。
わたしは、続けた。
「あなたが数えているのは、七十四人です。ミレンは、その中に入っておりますか」
「……入ってる」
「三十年前に出て、帰らなかった者は」
サビナは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「入れておいでですね」
「……」
「あなたは、全部覚えておいでです。忘れていない。ただ、あなたが覚えているだけでは、あの子たちは戻れません」
*
サビナは、しばらく火を見ていた。
それから、木の匙を鍋に立てて、ゆっくり言った。
「条件が一つある」
「伺います」
「書くのは、名前と、誰と誰が、どういう理由でだけだ」
「はい」
「数は書くな」
サビナは、こちらを見た。
「一軒でも、一頭でも、一枚でも書いたら、あたしはその帳面を燃やしに行く」
わたしは、その目を見返した。
三十年、この谷を守ってきた目だった。
そして、はじめて、はっきりと見えた。
この人と、辺境の帳面のあいだの糸が。片方は書かないことで守り、片方は数を書かないことで守っている。同じ結び目だ。
「……この縁なら、結べます」
*
その日の夕方、幕の下でアンゼルム様が待っていた。
その人の手には、国史の草稿があった。
「縁定め様。いま、谷で何をお決めになりましたか」
「決めておりません。谷が決めました」
「……国の帳面に戻さぬ、と」
「はい」
「代わりに、辺境伯の帳面に載せると」
「はい」
その人の顔から、あの明るさが、すっと引いた。
「それは」
はじめて、低い声だった。
「国の権を、侵します」
第三部で、ロザリンドがはじめて一言で見切る回です。
戻すか、戻さないか。ずっとその二つで回っていましたが、どちらも国の帳面の話でした。もう一冊、数を書かない帳面が国境にあります。名前と、誰と誰が、どういう理由で。税は数を書いた帳面からしか取れないし、何人いるかを書いていない帳面から七人は出せません。
道を架けないと決めるところが、この回のいちばん大事な一行だと思っています。架ければ国が来る。だから架けない。三十年やってきたやり方を、そのまま使う。
サビナの「書かないことは、この谷を三十年守った」を否定せずに、「ただ、出て行った子を一人も連れ戻せなかった」だけを置きました。この人が七十四人の中に、帰ってこなかった子をずっと入れて数えていた、というのがこの回の泣きどころです。
条件は一つ。数は書くな。書いたら燃やしに行く。
そして、明るい人の声が、はじめて低くなりました。




