第41話:名を貸す
「ミレンではない名前で、と申されましても」
書記官が、束を抱えたまま困っていた。
「名がわからぬ者を、名簿から探す手立てが」
「ございます」
わたしは、幕の下に膝をついて、地面に指で線を引いた。
「名を借りるなら、借りやすい名簿があります」
「借りやすい」
「二つ条件がございます。一つ、その名簿に載っている者が、いま誰にも数えられていないこと。二つ、その名簿を、もう誰も照らし合わせないこと」
アンゼルム様が、身を乗り出した。
「……没落した家の、使用人名簿」
「はい」
*
「素晴らしい」
その人は、目を輝かせかけて、途中でやめた。
やめて、少し、苦しそうな顔をした。
「いえ。……素晴らしいと申しては、いけませんな」
「アンゼルム様」
「その名簿を、私は写しました。この一年で、王国じゅうのものを。潰れた家のぶんまで律儀に写して、寮の棚に並べました」
その人は、自分の手のひらを見た。
「並べたのは、私です」
*
書記官が三人がかりで、束をめくりはじめた。
七年前に潰れた家。十年前に潰れた家。跡目が絶えた家。
「ラント子爵家」
三人めが、そう読み上げた。
「使用人名簿、二十三名。……この家は、七年前に取り潰しでございます」
「その二十三名は」
「散っております。行き先の記載は、ございません」
「その名簿に、二年前より後で、照会がかかった記録は」
書記官が、別の束を引いた。
紙をめくる音が、幕の中に続いた。
「……一件。二年前の、夏」
わたしは、膝の上で手を握った。
「王都の塩問屋が、使用人を一人雇い入れるにあたって、身元を照らしております。ラント子爵家の名簿を引いて、『相違なし』と」
「名前は」
「ヘルガ」
*
ヘルガという名の女が、ラント子爵家の名簿の十九人めにいた。
歳は、書かれていない。七年前の名簿だから、いま何歳なのかも、誰も知らない。
「二年前の夏に雇われたヘルガは、いま、いくつでございますか」
書記官が、塩問屋の帳面の写しを繰った。
「……二十二、と」
わたしは、目を閉じた。
二年前の春に谷を出た娘が、その夏に、名前を一つ借りた。
借りた名で身元が通って、雇われた。
「アンゼルム様。この者に、便りは」
「出せます。出しますとも」
「いいえ」
わたしは、首を振った。
「出せません」
*
「なぜです」
「その娘が返事を書けば、名を騙ったと自分で書くことになります」
その人の顔が、固まった。
「谷の出であることを言えば、身元は嘘だったと知れます。ラント子爵家の名簿に、そのような娘はおりません。塩問屋は、二年ぶんの給金を騙し取られたと訴えるでしょう」
「……それは」
「帰れば、罪になります。帰らなければ、弟は、一生あの子を探せません」
幕の外で、風が旗を鳴らしていた。
「わたしが、あの娘の立場なら」
わたしは、地面の線を、手のひらで消した。
「二年、便りを出しません」
*
その夜、テオに伝えた。
その子は、板の間に座って、しばらく口を開かなかった。
「……生きてるの」
「生きています。王都で、塩を扱う店に」
「塩」
その子の目が、揺れた。
「姉ちゃん、塩を売る先を見つけるって言って出たんだ」
「見つけたのだと思います」
「じゃあ、なんで帰ってこないの」
わたしは、その子の前に座り直した。
嘘は、つかなかった。
「お姉さんは、他の人の名前を借りて働いています。帰ると、その嘘が知れます」
テオは、うつむいた。
うつむいたまま、震える声で言った。
「おれのせいだ」
「テオ」
「おれが、谷から出なくてもいいようにって、姉ちゃんが」
*
マリカが、その子の隣で膝を抱えていた。
ずっと黙っていたのに、そこで口を開いた。
「あのさ」
「……なに」
「その、ヘルガって人は、どうなったの」
わたしは、答えられなかった。
七年前に散った二十三人の一人だ。生きているのか死んだのかを、誰も数えていない。
「わかんないってことでしょ」
マリカは、膝に顎を乗せた。
「あたしの母さんもさ、どっちの村の帳面にも載ってなかった。ロウ村でもギード村でも」
「……はい」
「でも、名前はあったんだよ。ちゃんとあった。誰も書かなかっただけ」
その子は、テオの背中を見た。
「名前がないんじゃなくて、書かれてないだけ。全然、別のことだと思う」
*
わたしは、その夜も眠らなかった。
炉の灰を掻きながら、ずっと同じところを回っていた。
国の帳面に載せれば、ミレンは名を返せる。返せるが、谷に税と兵が来る。
載せなければ、谷は守れる。守れるが、あの娘は一生ヘルガのままだ。
——どちらも、国の帳面の話だ。
そこまで考えて、手が止まった。
灰の中で、埋み火がひとつ、赤く残っていた。
わたしは、国の帳面のことしか、考えていなかった。
帳面は、もう一冊ある。
誰と誰が、どういう理由で。それだけを書いて、数は書かない帳面。
——今日で、百二十七。
半月遅れで届いた紙に、そう書いてあった。
名前を借りる、という話です。
谷の出には身元がありません。だから外で働くには誰かの名前が要ります。借りやすいのは、いま誰にも数えられていない人の名で、もう誰も照らし合わせない名簿に載っている名です。つまり、潰れた家の使用人名簿。
そして、それを写して棚に並べたのはアンゼルムでした。この人が「素晴らしい」と言いかけてやめる場面は、書いていていちばん気の毒でした。悪いことは何一つしていません。
ミレンは生きています。生きていますが、帰れません。帰れば名を騙ったと自分で書くことになるからです。第一部でロザリンドが宰相を詰めるのに使ったラント子爵家が、七年越しにこういう形で出てくるとは、書いている私も思っていませんでした。
マリカの「名前がないんじゃなくて、書かれてないだけ。全然、別のことだと思う」は、この子にしか言えない台詞です。
灰の中の埋み火のところで、ロザリンドがようやく、もう一冊の帳面を思い出します。




