第40話:祭り上げ
「縁定め様!」
馬から下りるより先に、その声が谷に届いた。
半月の道のりを越えてきた顔とは思えなかった。埃だけは、前より深い。
「お探ししました。いえ、参りたかったのです。書付でやり取りするような話ではございません」
「アンゼルム様。ここは」
「存じております。地図に無い」
その人は、坂の上まで登って、谷を見渡した。
段になった畑を。岩と同じ色の家を。煙を。
そして、目を輝かせた。
「……これほどとは」
*
畑から、人が下りてきた。
十人ほど。手には鍬を持ったままの者もいる。誰も何も言わない。ただ、旗を見ている。
サビナが、いちばん前に立った。
「アンゼルム・キルヒと申します」
その人は、驚くほど丁寧に頭を下げた。
「王都で、縁務寮という役所を預かっております」
「役所の人が、うちの谷に何の用だい」
「名を、お返しに上がりました」
*
革の袋から出されたのは、糸で綴じた冊子だった。
辺境の広間で見たものより、厚い。
「国史の草稿でございます。第一条に、こう書きました」
その人は、開いて、読み上げた。
「——縁定めロザリンド、南嶺の外を国に戻す」
谷の者が、顔を見合わせた。
「戻すにあたり、条件を三つ、王都と詰めてまいりました」
アンゼルム様は、指を折った。
「一つ、徴税は十年、免ずる。二つ、徴兵は当面猶予する。三つ、南嶺の道の普請は、王都の費えで行う」
——道を、架け直す。
三十年前に、この谷が待った言葉だった。
「破格でございます。私が半年ぶん頭を下げて回りました」
わたしは、その人の横顔を見た。
嘘は、一つも無い。この人は、心の底から良いことをしに来ている。
「いかがでございましょう」
サビナが、口を開いた。
「いらないよ」
*
アンゼルム様は、しばらく、意味がわからないという顔をしていた。
「……もう一度、伺ってもよろしいですか」
「いらない。帰っておくれ」
「お待ちください。免税でございますよ。十年です。徴兵も猶予がつきます。道が架かれば、塩が出せます」
「十年経ったら、どうなるんだい」
「……十年経てば、その時にまた」
「その時にまた、誰が決めるんだい」
サビナは、鍬を持った手を、下ろさなかった。
「あんたが決めるのかい。あんたの息子が決めるのかい。それとも、名前を書かない誰かが決めるのかい」
「私は」
「あたしらはね、三十年前に一度、王都の若いのに『必ず伝える』って言われてるんだよ」
アンゼルム様の顔から、笑いが消えた。
はじめて見る顔だった。
「……それは」
「あの男が嘘つきだったとは思ってない。伝えたんだろうさ」
サビナは、そこで一度、息を吸った。
「伝えて、それでも消えた。だから、あたしらは書かないことにした。守られるってのは、あんたたちが決めるってことだ。あたしらは、決められるのに飽きたんだよ」
「守られるのですよ」
その人は、本当に、わからないという声を出した。
「なぜです。守られるのですよ」
谷の風が、旗を鳴らした。
誰も、答えなかった。
*
その夜、アンゼルム様は坂の下に幕を張って、そこで書き物をしていた。
わたしは、行かなかった。
サビナの家の炉の前で、膝を抱えていた。
——決めなさい。
四年前のわたしなら、決めた。決めて、朝には手を打っていた。
いまは、決められない。
戻せば、この谷は十年後にまた誰かに決められる。戻さなければ、テオの姉は、二年前のまま、どこにもいない。
どちらの糸も、途中で切れている。
わたしには、その先が、見えない。
*
「お嬢さん」
サビナが、寝床から声をかけてきた。
「あんた、あの一団から荷を受け取ってないね」
「荷、ですか」
「馬の一頭が、鞍に括ってたよ。辺境の紋だ」
*
幕の脇に、それは置かれていた。
油紙で二重に包まれていた。中は、四つ折りの紙が一枚。
『市の帳面、止めていない。今日で百二十七。
橋の板を三枚替えた。
羊が三頭増えた。うち一頭は、白い。
ハンナが、お前の部屋を毎朝掃いている。
以上』
以上、と書いてあった。
わたしは、その紙を裏返した。裏は、白かった。
もう一度、表に戻した。
いちばん下に、あとから足した字があった。墨が、少し濃い。
『早く帰れ』
わたしは、その場にしゃがみ込んだ。
半月、泣かなかった。谷で、一度も泣かなかった。
四つ折りの紙を握って、幕の脇で、みっともなく泣いた。
*
翌朝、目が腫れていた。
アンゼルム様は、それを見ないふりをしてくれた。この人にも、そういうところがある。
「アンゼルム様。ひとつ、お願いがございます」
「なんなりと」
「この谷の娘を、一人、探していただけませんか」
わたしは、テオから聞いた名を伝えた。
「二年前の春に谷を出ました。ミレン。二十歳です」
その人は、すぐに書記官を呼んだ。
「寮は、この一年で王国じゅうの名簿を写しております。領の帳面、町の帳面、宿の帳面。……いかがか」
書記官が、束をめくった。三度めくって、顔を上げた。
「ミレンという名は、王国のいずれの帳面にもございません」
わたしは、うなずいた。
うなずいてから、指先が冷えた。
——名前が無い者は、名前を借りる。
「アンゼルム様」
「はい」
「もう一度、探していただけますか」
わたしは、書記官の持つ束を見た。
「ミレンではない名前で」
第三部のふたつめの区切りです。
アンゼルムは、半年頭を下げて回って、免税十年と徴兵猶予と道の普請を取ってきました。破格です。嘘も打算も一つもありません。そしてサビナは「いらない」と言います。「守られるってのは、あんたたちが決めるってことだ。あたしらは、決められるのに飽きたんだよ」
「なぜです。守られるのですよ」と本気で言える人が、いちばん止めにくいのだと思います。
ロザリンドは、この回では決めません。第一部も第二部も、この人は一言で見切ってきました。ここで一度だけ見切れない人にしておかないと、後で出す答えが、ただの思いつきになってしまうからです。
手紙は、用件しか書けない人の手紙です。羊の数まで書いて、最後に一行だけ墨が濃い。半月泣かなかった人が、そこで泣きます。
名前が無い者は、名前を借ります。次話、その名前を探しに行きます。




