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縁結びの令嬢はもう結ばない ~王家の縁を全部組んでいた私を追放した結果、誰も結べなくなったそうです~  作者: 早乙女リク


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第39話:足した一行

その夜、わたしは炉の前に座り直した。


「サビナ様。ひとつ、伺ってもよろしいですか」


「なんだい」


「三十年前。この谷に最後に来た、王都の使いを覚えておいでですか」


サビナの手が、鍋の縁で止まった。


「覚えてるよ」


「お名前は」


「キルヒ」


*


炉の火が、わたしの膝を照らしていた。


膝の上の手が、白くなっているのが見えた。


「……もう一度、おっしゃってくださいますか」


「キルヒ。王都の書記の若いのだ」


木の匙が鍋の縁を鳴らした。それきり、しばらく音がしなかった。


サビナは、鍋を火から下ろした。


「二十五、六だったかね。丁寧な男だったよ。谷に十日いた」


「十日」


「畑を数えた。人を数えた。羊も数えた。井戸まで覗いた。あたしは師匠の後ろについて、ずっと横で見てたから、いまでも言える」


その人は、指を折りはじめた。


「あの年の家が二十四。人が九十一。羊が百六十。……あの男が数えたのと、一つも違わない」


この人は三十年前の数を今日の数と同じ調子で言う。書かなかったから薄れないのだ。


「その方は、書き留めておいででしたか」


「全部。あんな熱心な役人は、後にも先にも見てない」


サビナは、少しだけ笑った。笑って、すぐやめた。


「あんたと同じ顔をしてたよ」


「……わたしと」


「全部わかる、って顔だ」


*


「その方は、なんとおっしゃって帰られましたか」


「道を架け直すって言った」


「架け直す」


「言ったんだよ、あの男は。数え終わって、こう言った。——これだけの人と羊がいる土地を、王都は知らなかった。必ず、伝える」


わたしは、目を閉じた。


「伝えた、と思います」


「あたしも、そう思うよ」


サビナは、鍋の中を木の匙で押した。


「二年待った。三年待った。塩を出す先が無くなって、若いのが出はじめた。五年目に、峠の商人が言った。あんたらの名前、帳面から消えてるってさ」


「……」


「あたしの師匠は、その日に書くのをやめた」


*


翌朝、沢の石へ行った。


ヴァレンティン様は、いつものように座っていた。


「筆跡の主が、わかりました」


「ほう」


「キルヒと申します。三十年前は、王都の若い書記でした」


その人は、しばらく黙っていた。


それから、静かに言った。


「コンラート・キルヒ。先代の筆頭書記官でございます」


「ご存じでしたか」


「名は。台帳の署名に、幾度も出てまいります。……三年前に没しております」


「亡くなって」


「はい。子がひとり」


わたしは、沢の水を見た。


答えは、もう出ていた。それでも聞いた。


「その方のお名前は」


「アンゼルムと申したかと」


*


わたしは、しばらく、何も考えられなかった。


考えられるようになったとき、最初に浮かんだのはあの人の顔だった。


——これは、事件です。


——誰も勘定に入れてこなかった項目です。


あの人は、四年ぶんの写しの余白を、びっしり埋めていた。夜ごとひとりで唸っていた、と言った。


なぜ、そこまでするのか。


なぜ、「記録に残す」ということに、あれほど熱を持てるのか。


「ヴァレンティン様」


「はい」


「三十年前の普請の書付には、決めた者の名が」


「ございません」


「では、どなたが決めたのですか」


「誰も決めておりません」


その人は、指を一本立てた。


「若い書記が、これだけの人がいると書いて上げました。上役はそれを読み、判を押しません。代わりに、別の紙を書かせております。——右、先例に照らし、旧に復さず」


「書かせた」


「書付を書くのは、いつでも下の者でございます。命じた者は、筆を持ちません。ですから名も残りません」


「……」


「先例に照らす、というのは、そういう使い方をされる言葉でございます。誰も決めていないのに、決まる。決めた者がいないので、誰も詫びません」


*


わたしは、その日の夕方まで沢のそばに座っていた。


水は冷たい。手を入れると、指の先から痺れる。この水は南へ落ちていく。王都へは行かない。


コンラート・キルヒは、十日この谷にいて、全部数えて、必ず伝えると言って帰った。


伝えた。そして、消えた。


その人の子が、いま、王都に寮を建てている。


すべてを記録し、先例にすれば、こういうことは二度と起きない。あの人は、そう信じている。


信じられるはずだ。


——父親が、記録に残らないやり方で土地をひとつ消したのだから。


そして、あの人は、それを知らない。


*


峠から、蹄の音が下りてきた。


一頭ではない。谷の者が、次々に畑から顔を上げる。


マリカが、坂を駆け上がってきた。


「ロザ様!」


「……何人ですか」


「馬が六頭! 旗も持ってる!」


わたしは、立ち上がった。


半月の道のりを、あの人はわたしを追って越えてきたのだ。

三十年前に南嶺の道を架け直さないと決めたのが誰なのか、という回でした。


サビナは書かない人ですが、忘れない人です。三十年前に谷を数えていった若い書記の名前を、いまでも言えます。「あんたと同じ顔をしてたよ」「全部わかる、って顔だ」と言わせたのは、ロザリンドとその男が同じ側の人間だからです。


コンラート・キルヒは、十日谷にいて全部数えて、必ず伝えると言って帰りました。伝えたのだと思います。そのうえで、谷は消えました。上役は判を押さず、別の紙に一行足しただけで、その紙にも名前がありません。誰も決めていないのに決まる。決めた者がいないから、誰も詫びません。


その男の子どもが、いま王都に寮を建てています。すべてを記録して先例にすれば二度と起きない、と本気で信じています。信じられるはずです。そして、知りません。


馬が六頭、峠を下りてきました。

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