第38話:数えている男
その背中には、見覚えがあった。
四十を過ぎた男の、少しも崩れていない背中だ。
「……ヴァレンティン様」
指が、止まった。
振り返ったその人は、外套も靴も傷んでいたが、襟だけはきちんと合わせてあった。
「これは。——縁定め殿」
*
「次に会うときは、道具ではなく、敵として」
橋の上で、そう言って去った人だった。
「敵として、いらっしゃったのですか」
「そのつもりでおりました」
その人は、膝の上の何も置かれていない手を見た。
「困ったことに、この土地には、敵対する理由がございません」
「理由」
「私が誰かと敵対するには、そこに取り合うものが要ります。土地でも、家門でも、荷でも。この谷には、どれもございません」
「人が、七十四おります」
「存じております。羊は二百と六」
わたしは、少し、驚いた。
「お数えになったのですか」
「三月かけて」
三月。
わたしは、峠のほうを見た。
「ヴァレンティン様。峠を越える便は、どのくらいの間で」
「ひと月に一度あればよいほうでございます。谷の者は使いません」
「……そうですか」
「文をお待ちですか」
「いいえ」
嘘をついた。この人には、たぶん通じていない。
わたしが四年ぶんの目録を記憶から書き起こすのに使ったのは三日だ。この人は同じ谷に三月いた。数えるだけで三月いた。
*
その人は、平らな石を手で払って、わたしに勧めた。
わたしは、少し離れて座った。
「全権を解かれてから、どちらへ」
「どこにも。国へは戻れません。私を雇う国も、もうございません。私は、成果が値に見合わなかった男ですので」
淡々としていた。恨みも、自嘲もない。
「それで、南へ」
「値のつかない場所を、見に来ました」
沢の音が、少し高くなった。
「縁定め殿。私はあの橋の上で、家門を四十三、買ったと申しました。三割だと。あれは正しい数でした。それでも私は負けました」
「……」
「なぜ負けたのかを、三月考えました。値のつくものだけを数えていたからだ、という答えが出ました。それが正しいかどうかを、確かめに来たのです」
「確かめて、いかがでしたか」
その人は、はじめて、こちらを見た。
「数えられます。書けません」
*
沢の水が石を打っていた。その音だけが休まない。
「書けない、と申しますのは」
「書けば、この土地は帳面になります。帳面になれば値がつく。値がつけば、誰かが買う。——私が、買います」
その人は、自分の手を見た。
「私は、そういう風にしか、ものを見られません。ですから、書かないことにしました」
炉の火を見ていたサビナの顔が、頭に浮かんだ。
書いたら見つかる。書かないから、忘れない。
まるで違う場所から来た二人が同じ結論に立っている。片方は谷の数え役だ。もう片方は国を買おうとした男だ。
「ヴァレンティン様」
「はい」
「この谷が帳面から消えたのは、三十年前だそうです」
「存じております」
「……ご存じ」
「私は、エルデンフェルトの家門の台帳を、四年ぶん、全部読みました」
*
心の臓が、鳴った。
「四年ぶん、と申しますと」
「あなたが縁定めでいらした四年です。買うために読みました。二百と十四ございましたな」
——数えたのは、わたしだけだと思っていた。
もうひとり、いた。
「では」
わたしは、膝の上で手を握った。
「リューベルンの同盟婚の、添状を」
「読みました」
「そこに、わたしが書いた一行が」
「ございます。——南嶺の外は、いずれの家門にも属さぬ」
一言一句、同じだった。
わたしは、目を閉じた。
「……それが、この谷を」
「消しておりません」
*
目を、開けた。
「なんと、おっしゃいましたか」
「消しておりません、と申しました」
その人は、いつもの穏やかな声のままだった。
「あなたの一行は、四年前のものです。この谷が台帳から落ちたのは三十年前です。順が合いません」
「順は、どうでもよいと言われました」
「数を扱う者には、どうでもよくありません」
その人は、指を一本立てた。
「添状には、あなたの一行の下に、もう一行ございます」
「……もう一行」
「筆が違います。墨も違う。同じ日に書かれたものではありません」
沢の音が、遠くなった。
「なんと、書いてございましたか」
「『右、先例に照らし、旧に復さず』」
*
先例に照らし。
その言葉を、わたしはこの半月で二度聞いていた。
一度は、上等な紙に美しい字で綴じられた冊子の、三枚目の途中で。
「ヴァレンティン様」
「はい」
「その一行は、いつ書かれたものですか」
「日付はございません。ただ、添状はその筆で締められておりました」
その人は、立ち上がって、外套の裾を払った。
「縁定め殿。あなたは一行、書いた。それは間違いございません」
「はい」
「ですが、その一行を『二度と戻さぬ』と読み替えた者が、別におります」
「どなたです」
「私は、筆跡を照らす立場にございません。もう、何の権も持たぬ男ですので」
その人は、少しだけ首を傾けた。
「ですが、その筆は、王都の書庫であと二度、見ました」
「……どこで」
「三十年前の、南嶺の道の普請の書付。——架け直さぬ、と決めた紙です」
*
この人はいつもなら、ここで一言添えた。
面白い、と。
橋の上でも広間でも物見台でも、その一言でわたしの背筋を冷やしてきた人だ。
その夜は、言わなかった。
第二部の最後で「次に会うときは、道具ではなく、敵として」と言い残して橋を渡っていった人が、戻ってきました。ただし敵にはなれません。敵対するには取り合うものが要りますが、この谷には値のつくものが何もないからです。
三月かけて谷の荷と人と羊を数えて、書かなかった。書けば帳面になり、値がつき、自分が買ってしまうからです。まるで違う場所から来たサビナとこの人が、同じ結論に立っているのが、この回で書きたかったところでした。
そして鍵を渡します。ロザリンドの一行は四年前、谷が消えたのは三十年前。順が合いません。添状には、筆も墨も違う一行が下に足されていました。
いつもの口癖を、この回では言わせませんでした。




