第37話:書状を書いたのは誰か
その子は、翌朝、炉の外で立っていた。
十二くらいだろうか。痩せていて、手だけが大人のように荒れている。
「テオ」
サビナが呼ぶと、その子は肩をびくりと上げた。
「入りな。あんたが呼んだ客だ」
*
「……おれが、書いた」
板の間に座って、その子は膝を掴んでいた。
「峠の向こうの商人に、字を教わった。塩を運ぶ人。あの人は年に二度来る。三年、教わった」
「その方が、あの書状を運んでくださったのですね」
「うん。春に来たとき、預けた」
「それで、あの文を」
「書けた。返事の字は、読めない」
だから末尾の一行だけ、わたしたちの文字だったのだ。あの子は、自分が読める字で、返事の入り口を一行だけ開けておいた。
「テオ」
わたしは、書状の写しを膝に置いた。
「よく書けています。……本当に」
「ばあちゃんに黙って出した」
その子は、サビナのほうを見ない。
「怒られた」
「怒ってない」
サビナが、鍋をかき混ぜながら言う。
「三日、口をきかなかっただけだ」
「それ、怒ってるってことじゃん」
マリカが横から言って、テオがはじめて、少しだけ笑った。
*
「テオ。どうして書いたのですか」
その子の顔から、笑いが消えた。
「姉ちゃんが、いない」
*
ミレン、といった。
二年前の春に谷を出た。二十歳になっていた。谷には畑が足りなくて、若い者は、たいてい一度は外へ出る。
「一年で帰るって言った。塩を売る先を見つけるって」
「便りは」
「一度だけ。峠の商人が持ってきた。元気だって。それだけ」
「その後は」
「二年、何もない」
わたしは、口を開いた。
「テオ。お姉さんは、どちらの町へ」
「わかんない」
「では、どの家に雇われたか」
「わかんない」
その子は、膝を掴む手に力を入れた。
「聞いても、無理なんだ。……姉ちゃんは、名前がないから」
*
そこで、はじめて全部が繋がった。
谷の者には、身元がない。
どこの家門にも属さない土地の生まれだから、どの領の帳面にも名が無い。名の無い人間は、町では雇われない。宿にも泊まれない。関を通れない。
だから谷を出た者は、名前を借りるか、隠れて働くかする。
そして、いなくなったとき。
「探せない」
わたしは、自分の声を聞いた。
「探しに行っても、その名で問い合わせる先が、どこにもない」
「うん」
テオが、うなずいた。
「だから、書いた」
*
その子は、わたしを見た。
まっすぐだった。恨みも、期待も無い。ただ、まっすぐだった。
「谷を帳面に戻してって、書こうと思った。戻れば、姉ちゃんの名前も、どっかに載る」
「テオ」
「でも、書けなかった」
「……」
「戻ったら、税が来る。人も取られる。ばあちゃんが言ってた。あの年、七人出て二人帰ったって」
その子は、そこで一度、言葉を切った。
「姉ちゃんを探すために、谷から七人出すのかって思ったら、書けなかった」
炉の火の音だけが、しばらく続いた。
「だから、あれしか書けなかった」
——その縁は、結べますか。
「結べるなら、結んでほしい。無理なら、無理って言ってほしかった。……ずっと、どっちかわかんないままなのが」
その子は、そこで初めて、顔を伏せた。
「いちばん、しんどい」
*
マリカが、立ち上がった。
そのまま、テオの隣に座って、何も言わずに、その子の背中を一度だけ叩いた。
その子は泣かなかった。マリカも何も言わない。谷の朝は、こういう静かさでできている。
わたしは、その二人を見ていた。
載れば、奪われる。
載らなければ、いなくなった者を探せない。
どちらを選んでも、何かを差し出さなければならない。
——他人の縁なら、一目で見えるのに。
四年、わたしはそう思って生きてきた。見える、と思っていた。見えたら、結べると思っていた。
いま、見えている。
見えているのに、答えが、無い。
*
「お嬢さん」
サビナが、鍋の火を落とした。
「一つだけ言っとくよ」
「はい」
「あんたに『どっちにしろ』と言われても、あたしらは従わない。ここは、あんたの帳面じゃない」
「……存じております」
「だけどね」
その人は、鍋を下ろす手を止めた。
「その子は、返事を待って三年、字を習ったんだ」
わたしは、板の間の木目を見ていた。
三年。わたしが宮廷で縁を組んでいたあいだの、ちょうど終わりのほうだ。あの三年でわたしは同盟婚を三つまとめた。同じ三年を、この子は字に使った。
*
その日の夕方、水を汲みに谷の外れまで下りた。
沢の音がして、その向こうに平らな石が一枚ある。水はここで一度たまり、それから南へ落ちていく。
その上に、男が座っていた。
背を丸めて、何かを膝に置いている。
荷が通る。羊が通る。人も通る。
その男は、通るたびに、指を一本ずつ折っていた。
問いの本体を置く回でした。
谷の者には身元がありません。どこの家門にも属さない土地の生まれだから、どの領の帳面にも名前が無い。名前が無ければ町で雇われない。だから谷を出た者は名前を借りるか隠れて働くかして、いなくなったときには探せません。
テオは「谷を帳面に戻して」と書こうとして、書けませんでした。戻れば税が来て、人が取られる。姉を探すために谷から七人出すのかと思ったら書けなかった、というのがこの子の三年です。それで書けたのが、あの一行だけでした。
ロザリンドは、他人の縁なら一目で見える人です。この回では、見えているのに答えがありません。第一部から「見えても、動かす立場がない」という縛りでやってきましたが、ここではじめて「見えても、正解がない」に変わります。
沢のところで指を折っている男が、次話に出ます。




