第36話:書かない女
峠を下りると、風が止んだ。
イーゼル谷は、名のとおり谷だった。
村がない。段になった畑が斜面に何十枚も貼りついていて、その隙間に岩と同じ色の家がある。数えようとして、途中でやめた。どこまでが一軒でどこからが岩なのか、わからない。
煙が、七つ。
それが、この土地でわたしが最初に数えたものだった。
辺境の門を出てから、ひと月が経とうとしている。
あの人は、文を書くと言った。書いたところで、この谷まで届く道が無い。
*
道の途中に、マリカが座っていた。
石の上で、荷を膝に抱えて。
「……マリカ」
「あ」
その子は立ち上がりかけて、やめた。やめて、目をそらす。
「早かったじゃん」
「二日、遅れました」
「うん」
「入れていただけませんでしたか」
マリカは、しばらく黙っていた。
「三日、ここ座ってる」
「三日」
「あたしが名乗ったら、婆さんが出てきてさ。エルデンフェルトから来たのかって聞かれて、うんって言ったら、じゃあ帰れって」
その子は、膝を抱え直した。
「あたし、あんたたちの帳面に載ってない側だよって言った。母さんも載ってなかったって。……そしたら」
「……そしたら」
「じゃあなんで、載ってる側の靴を履いてんだって」
*
その婆さんは、日が傾いてから、坂の上に現れた。
背は低い。手が、木の根のようだった。
「あんたが、書いた人かい」
「……ロザリンド・アルシェットと申します」
「名前は聞いてない。書いたのかって聞いた」
「書きました」
婆さんは、そこではじめて、わたしをちゃんと見た。
「サビナだ。この谷の数え役をしてる」
「数え役」
「数える。それだけ」
*
家の中は、暗かった。
炉があって、鍋があって、干した草が下がっている。
それだけだった。
わたしは、思わず壁を見た。壁も、棚も、床も見た。
「探しても無いよ」
サビナが、炉に枝を折って入れる。
「何を、とは聞かないでおくれ。あんたみたいなのは、みんな同じものを探す」
「……帳面が」
「無い」
「では、数えたものは」
「ここ」
その人は、自分のこめかみを、指で二度叩いた。
「谷の家が十九。人が七十四。羊が二百と六。今年生まれたのが十一。死んだのが三」
すらすらと出てきた。
「去年は」
「七十九。羊は百九十。生まれたのが九。死んだのが四」
「……お書きになれば」
「書いたら見つかる」
サビナは、火を見たまま言った。
「書いたものは、いつか誰かが持っていく。持っていったら、こっちの手には残らない。あたしは、書かないから、忘れないんだよ」
*
わたしは、懐から書状の写しを出した。
「これは、この谷から届いたものです」
「見せな」
サビナは、写しを受け取って、目を通した。読める。当たり前のことなのに、少し驚いた。
「……ああ」
「サビナ様。この文には、わたしが書いた一行のせいでこの谷が消えたと」
「そうだね」
「三十年前です。わたしが書いたのは四年前です。ですから、順が」
「順なんかどうでもいい」
その人は、写しを膝に置いた。
「あのね、お嬢さん」
炉の火が、ぱちりと鳴った。
「あたしらは、消えたんじゃない」
*
意味が、すぐには入ってこなかった。
「……なんと」
「消えたことにしてもらって、三十年、生きてきたんだ」
サビナは、火を見ている。
「三十年前まではね、南嶺に道があった。塩を出して、麦を入れて、税を納めてた。税ってのはね、納めりゃ済むもんじゃない。人も出す」
「徴兵」
「そう。あの年、うちの谷から七人出て、二人帰った」
わたしは、何も言えなかった。
「道が落ちてね。王都は架け直さなかった。そのうち、税の使いも来なくなった。帳面から名前が消えたって、峠の向こうの商人が教えてくれた」
火が、はぜた。
「あたしは、そのとき数え役の見習いだった。師匠が言ったよ。——書くのをやめようって」
「……」
「消えたままでいれば、税は来ない。人も取られない。道は無いけど、うちらは道が無くても生きられる。生きてきた。三十年」
サビナは、はじめてこちらを向いた。
「それをあんたが、戻しに来た」
*
わたしは、座ったまま、動けなかった。
四年ぶんの目録を書き起こした夜から、ここまで、わたしはずっと同じことを考えていた。
——償わなければならない。名を、帳面に戻さなければならない。
その考えごと、間違っていた。
わたしは、この谷が「戻りたがっている」と、確かめもせずに決めてきた。
四年前と、同じことをした。
「サビナ様」
声が、掠れた。
「では、なぜ」
「ん」
「なぜ、この谷から、あの書状が出たのですか」
サビナの手が、止まった。
炉の火が、その人の顔の半分を照らしていた。
「……あれはね」
長く、間があった。
「あたしが出したんじゃない」
大きく裏返す回でした。
ロザリンドはここまで「自分が消してしまった土地に、名前を返しに行く」つもりで半月歩いています。谷に着いてみると、谷は消えていたかった。三十年前に道が落ちて、王都が架け直さなかった。そのおかげで税も徴兵も来なくなった。書かないことが、この土地の生き方でした。
サビナは、ロザリンドの鏡です。ロザリンドは釣書と目録と帳面で人を結んできた人で、サビナは何も書かずに七十四人と羊二百六頭を全部覚えている人です。「書いたら見つかる」「書かないから忘れない」は、この谷の三十年そのものだと思って書きました。
償いのつもりだったものが、四年前とまったく同じ「確かめずに決める」だったと気づくところが、この回の底です。
では書状は誰が出したのか。次話でわかります。




