第35話:南へ行く
「わたしが行きます」
そう言ったとき、マリカは荷を背負ったままだった。
「なんで」
「あなたが行く理由と、同じ理由です」
「同じじゃないでしょ」
その子は、はじめて声を荒げた。
「ロザ様は、書いた人でしょ。行ったら、殴られるかもしんないじゃん」
「殴られに行くのです」
*
厨の火が、ぱちりと鳴った。
「あたしは」
マリカが、荷紐を握り直す。
「あたしは、名前がない側の人間だよ。母さんは、どっちの村の帳面にも載ってなかった。だから流されたとき、誰も探しに来なかった」
「知っています」
「じゃあ、あたしが行くほうが早いって、ロザ様ならわかるでしょ」
わかっていた。この子のほうが、あの谷の言葉に近い。
だから、なおさら行かせられなかった。
「マリカ」
わたしは、その子の前に膝をついた。
「あなたが行けば、たぶん、話は通ります。それで、話が通ったあと、あの谷はわたしに何と言えばいいのですか」
「え」
「書いた人間が来ないまま、話だけが通る。それは、わたしがもう一度、あの谷を紙の上で片付けるということです」
*
出立の支度は、二日かかった。
南嶺は、半月の道のりだという。王都までは三日だった。三日の距離で、わたしは四年ぶん王家の縁をほどけさせた。半月というのは、そういう距離ではない。
アンゼルム様は、先に王都へ発たれた。
「寮は、進めます」
馬上から、その人は言った。悪びれもせず、明るく。
「あなたが谷から戻られるまで、条を練っておきます。第一条は、あなたのお名前で始まります」
「アンゼルム様。わたしは、まだ何もお受けしておりません」
「存じております。ですが、寮は動きます」
わたしは、その背中が見えなくなるまで、門に立っていた。
——動きます。
あの人は、嘘をつかない。だから、いちばん怖い。
*
発つ朝、雨がやんだ。
ハンナが荷を三度数え直し、四度目でやめた。
「お嬢様。半月でございますよ」
「半月です」
「半月で着くのであって、半月で戻るわけではございません」
「……ハンナ」
「わたくしは、お止めいたしません」
その人は、目を伏せた。
「ただ、旦那様が昨夜、書き物をしておいででした。何をお書きか伺いましたら、なんでもないとおっしゃって、丸めておしまいになりました」
*
門の外に、馬が二頭。
アルヴィン様は、鞍の腹帯を、必要以上に強く締め直していた。
「……緩い」
「三度目でございます」
「緩い」
締め終わって、それでもこの人は、手を離さなかった。
「ロザ」
「はい」
「谷の者に何を言われても、頭を下げるな。……いや」
言い直した。
「下げていい。だが、下げたまま帰ってくるな」
わたしは、笑ってしまった。笑ったら、目の奥が熱くなった。
「アルヴィン様。ひとつ、お願いがございます」
「言え」
「わたしがいないあいだに、市の帳面を止めないでくださいませ。誰と誰が、どういう理由で。あれだけは、途切れさせないでいただきたいのです」
「……止めん」
この人は、それから、長く黙った。
言葉を探すとき、この人はいつも、明後日のほうを見る。
「文を書く」
「え」
「文を、書く」
もう一度言った。それだけ言って、この人は馬の首を撫でた。
わたしは、何と返せばいいのかわからなかった。
釣書を三日で書いては消した人だ。書けないのではない。この人は、出せないのだ。
「……お待ちしております」
*
南嶺は、五日目から森になり、九日目から石になった。
木が減り、風が変わり、道が細くなる。
八日目に泊まった村で、宿の女に南嶺の外のことを尋ねた。
「向こうは、何もありませんよ」
女は、椀を拭きながらそう言った。
「人は」
「いないでしょう。だって、名前がないもの」
悪気は、まるでなかった。この人は、地図に無いものは無いのだと、心から思っている。それだけのことだ。
わたしは礼を言って、椀を返した。
「奥様。ひとつだけ」
「はい」
「昔は、塩が来ましたよ。南から。あたしの祖母が言ってました」
「……いつごろまでですか」
「さあ。祖母が娘のころですから、三十年、四十年」
*
案内の男は、十日目で「ここまでだ」と言って引き返した。ここから先は、王国の道ではないのだという。
十二日目の夕方、峠に出た。
風が、真横から吹いていた。
わたしは、そこで馬を止めた。
岩の陰に、焚き火の跡があった。
灰を指で触ると、まだ温かい。傍らに、樺の皮が一枚、石で押さえてある。
裏に、炭で走り書きがあった。
『さきいってる』
字が、下手だった。
わたしは、その皮を懐に入れた。
——あの子は、二日、早い。
風が、南から吹き上がってくる。
その向こうに、地図にない谷が、あるはずだった。
第三部のひとつめの区切りです。
「あたしが行く」と第二部の最後で言い張った子が、本当に行こうとする。ロザリンドがそれを止めて、自分が行く。止める理由が「危ないから」ではなく「書いた人間が来ないまま話だけ通るのは、もう一度あの谷を紙の上で片付けることになるから」なのが、この人らしいと思って書きました。
半月という距離を出したのは、王都までの三日と比べたかったからです。三日の距離なら、この人は動かずに勝てました。半月は、そういう距離ではありません。
アルヴィンの「文を書く」は、第二部の最後で釣書を三日で十七枚書いて消した人の、続きです。書けないのではなく、出せない人でした。
峠の焚き跡と、下手な字の樺の皮のところで切ります。次話、谷に着きます。




