第34話:先例
三日のあいだに、王都から二度、荷が届いた。
縁務寮は、もう動いていた。叙勲より先に、寮のほうが先に立っていたのだ。
「初仕事でございます」
アンゼルム様が、写しを卓に広げる。
「ロート伯の遠縁に、ベルタという娘がおります。十七。相手は、同じ屋敷の荷馬の口取りで、ヤンと申します」
「……身分が」
「違います。まるで違います。以前であれば、書面が回る前に握り潰されておりました」
その人は、嬉しそうだった。
「ですが、先例がございました」
*
写しの端に、細い字で引用が添えてあった。
——縁定めロザリンド、家格の隔たりを理由に縁を退けず。当人の望みあるときはこれを結ぶべし。
クラリッサ様とセドリック殿の件だった。
「これを引いて、寮は結ぶと判じました。三日で判じました。三日でございますよ。以前なら三年かかった話です」
わたしは、写しをもう一度見た。
上から下まで、見た。
「アンゼルム様」
「はい」
「この娘は、何と申しておりますか」
その人は、少し首をかしげた。
「何と、とは」
「ベルタが、ヤンと結ばれたいと言ったのは、どの紙に書いてございますか」
*
紙が、めくられる音がした。
一度。二度。
「……書いては、おりませんな」
「では、どこから」
「屋敷の者の証言がございます。二人が、荷置き場で二度、話しているのを見たと」
「二度」
「二度でございます。以前ならば誰も書き留めなかった。それを書き留めた。これは、進歩でございましょう」
わたしは、ゆっくりと息を吐いた。
「アンゼルム様。わたしがクラリッサ様の縁を結び直したとき、いちばん長くかかったのは、書庫でした」
「書庫」
「あの方は、三年、誰にも本心を言えなかった方です。わたしは書庫で、あの方の話を、二晩聞きました。それから結びました」
「……ほう」
「聞いたのです。形が似ていたから結んだのではありません」
「なるほど」
「アンゼルム様。ベルタは、荷置き場で誰と二度話しておりましたか」
「ヤンと」
「ヤンだけですか」
その人は、写しをめくった。めくって、止まった。
「……口取りの、もうひとり。名は、書いてございませんな」
「屋敷の者は、その者の名を覚えていなかったのでしょうか」
「聞いていない、のでしょうな。二度話したのはヤンのほうでしたので」
わたしは、その紙を裏返した。裏は、白かった。
聞かなかったことは、白いままそこに残る。誰も、白を読まない。
*
その人は、しばらく黙っていた。
そして、目を輝かせた。
「なるほど。手順が、抜けておりました」
「手順」
「聴取でございますな。当人からの聴取。これを寮の手続きに加えます。素晴らしい。やはりお伺いしてよかった」
「アンゼルム様」
「二度と抜けぬよう、条に書きます。『当人の望みは、当人より聴くべし』。——ああ、これは第二条に置きましょう」
わたしは、卓に手をついた。
「その縁は、結べません」
言った。
言ってしまってから、その人の顔を見た。
*
アンゼルム様は、目を見開いていた。
嬉しそうに。
「素晴らしい」
「え」
「素晴らしい。いま、あなたは何をご覧になりましたか。証言が二度あって、書面が揃っていて、寮の全員が結べると判じた縁を、あなたは退けた。何を見て退けられたのです」
「それは、当人に」
「その判断です。その判断こそが、寮に無いものです」
その人は、もう筆を執っている。
「では、それも先例に」
*
その夜、わたしは眠らなかった。
断罪された夜も、宰相と対峙した夜も、勅命の返答期限の夜も、わたしは眠っている。眠って、朝に手を打つ。それが、わたしのやり方だった。
眠れないのは、はじめてだ。
——断れば、断ったことが条になる。
あの人は、わたしの否も、わたしの躊躇も、わたしの間違いも、全部拾って書き留める。悪意がない。賄賂も取らない。私腹も肥やさない。
宰相は、わたしの言葉を握り潰した。ヴァレンティン様は、わたしの言葉に値をつけた。
この人は、わたしの言葉を、写す。
写されたものは、もう、わたしのものではない。
*
明け方、廊下でマリカにぶつかった。
その子は、外套を着ていた。背には、括った荷。
「……マリカ」
「起こさないでって、ハンナに言ったのに」
「どこへ行くのですか」
「南」
わたしは、その子の腕を掴んだ。
「南嶺の外は、半月かかります」
「知ってる。ヨルグ兄に聞いた」
「あなたひとりで行って、何をするのですか」
マリカは、わたしの手を振り払わなかった。
ただ、まっすぐこっちを見た。
「ロザ様が寝てないの、五日目だよ」
「……」
「あたし、帳面に名前がなかった側だからさ。行けば、たぶん、あっちの言葉がわかる」
「断れない敵」を、具体的な一件で出しました。
ベルタとヤンの縁を、寮は三日で結ぶと判じます。以前なら握り潰されていた縁ですから、進歩といえば進歩です。ただ、誰もベルタに聞いていない。ロザリンドがクラリッサの縁を結び直したときにいちばん時間をかけたのは、書庫で二晩、話を聞くことでした。先例は、その二晩を省略します。
そしてロザリンドが「その縁は、結べません」と言うと、アンゼルムは喜びます。この人にとっては、否も素材だからです。宰相は言葉を握り潰し、ヴァレンティンは言葉に値をつけましたが、この人は言葉を写す。写されたものは、もう本人のものではありません。
マリカが荷をまとめているところで切りました。次話、南嶺を越えるのが誰になるかが決まります。




