第33話:讃える男
その人は、荷馬車で来なかった。
王家が辺境に来たときは荷馬車が七台だった。国璽を積み、書記官を並べ、騎士に頭を下げさせた。あれは国が来たのだ。
今度は、馬が二頭。供はひとり。
「縁定め様!」
門をくぐるより先に、その人は馬から飛び降りてきた。
「お会いしとうございました。いえ、四年——四年です、私は四年、あなたの組んだ縁を読んでおりました。読んで、震えておりました」
「……あの」
「アンゼルム・キルヒと申します。王都で、書付の整理をしております」
三十半ばだろうか。埃だらけの外套のまま、目だけが恐ろしく明るい。夜通し馬を替えてきた顔だった。
「整理、ですか」
「整理です。整理という言葉では足りませんが、他に言いようがございません」
その人は、鞍から重そうな革の袋を外して、抱えた。
「持ってまいりました。あなたの、四年ぶんを」
*
広間の卓に、紙が積み上がっていく。
わたしが組んだ縁の写しだった。ヴァイス伯家の長女。ロート伯の跡目。グリュン伯家の次男とファルコ家の息女。
そして、その一枚ごとに、余白がびっしり埋まっている。
「これは」
「私の書き込みでございます。この縁は、なぜ続いたのか。この縁は、なぜ持参金が釣り合っていながら三年で切れたのか。……お恥ずかしい。夜ごと、ひとりで唸っておりました」
アンゼルム様は、一枚をつまみ上げて、目を細めた。
「クラリッサ様とセドリック殿。これです。これが、私には長く分かりませんでした。家格が違う。持参金も無い。宰相家が潰した縁だ。それを、あなたは三年越しで結び直した」
「……当人たちが、望んでおりましたから」
「望み!」
その人は、紙を卓に叩きつけるようにして置いた。
「望みでございます! 誰も勘定に入れてこなかった項目です。これは、事件です」
わたしは、正直に言えば、少しだけ、いい気持ちになっていた。
四年、王都で。「縁を組む道具」と呼ばれた。組んだ縁の数を、誰も数えなかった。
その紙束を、この人は全部読んでいた。
*
「陛下より、叙勲がまいったかと存じます」
「はい。頂戴いたしました」
「あれは、はじまりでございます」
アンゼルム様は、袋の底から、糸で綴じた冊子を出した。
「王都に、縁務寮を置きます」
「縁務、寮」
「縁定めを、国の役目にいたします。ひとりの才ではなく、国が持つ技として。あなたには初代の座に就いていただきたい。むろん、辺境からお動きいただく必要はございません。ここから差配していただければ結構」
背中の壁のあたりで、アルヴィン様が身じろぎした。
「そして」
その人の目が、いよいよ明るくなった。
「あなたの結んだ縁を、すべて国史に載せます」
「……国史に」
「載せます。第一条から。二度と、誰にも『道具だった』などと言わせません」
わたしは、その冊子を受け取った。
紙は上等で、字も美しい。表紙の裏に、条が一つずつ番号を振って並んでいる。
三枚目の途中に、こうあった。
——縁務寮の定むる縁組は、先例に照らして定む。
*
先例に照らして定む。
その一行を、わたしは三度読んだ。
「あの、アンゼルム様」
「はい」
「先例、と申しますのは」
「あなたの二百の縁でございます」
その人は、当然のことのように答えた。
「これまでは、家格と持参金しか物差しがございませんでした。これからは、あなたの縁があります。似た形の縁が持ち込まれたら、あなたが何と判じたかを引けばよろしい。誰でも引ける。どこの誰が担当しても、同じ答えが出ます」
「……同じ答えが」
「出ます。素晴らしいことでございましょう」
わたしは、口を開きかけた。
その縁は、と言いかけて、止まる。
三年前、わたしはクラリッサ様の縁を潰している。宰相の顔色を見て、家格の理屈で。
三年後、当人たちの望みを聞いて、結び直した。
結び直せたのは、あのとき決めたことが法ではなかったからだ。
間違いはまだわたしの手の中にあった。だから取り返せた。
「アンゼルム様」
「はい」
「わたしが、間違えていたら、どうなさいます」
その人は、心の底から不思議そうな顔をした。
「間違えて、おられますか」
*
その夜、アンゼルム様は客間で、まだ書き物をしていた。
灯りが漏れている扉の前を通ったとき、中から声がした。
「縁定め様」
「……はい」
「南嶺の外の話を、聞きました」
心の臓が、止まった気がした。
扉が開いて、その人が顔を出した。目は昼と同じ明るさだった。
「地図から消えた土地がある。書いたのはあなただと、谷の者が言っている——そういう文が、王都にも届いております」
「アンゼルム様、わたしは」
「戻しましょう」
その人は、笑った。
「あなたの筆で消えた土地です。あなたの筆で、戻しましょう。国の帳面に、名を書いて差し上げればよろしい」
「それは」
「素晴らしい話ではございませんか。第一条に添えるのに、これほど良い話はございません」
三人目の敵を出しました。
宰相バルドウィンは貶めて奪う人でした。ヴァレンティンは値をつけて買う人でした。アンゼルムは、讃えて奪う人です。しかも敬愛は本物です。彼はロザリンドの縁を四年かけて読み込み、余白に書き込みをして、夜ごと唸っていた。ロザリンドが少しいい気持ちになってしまう場面を入れたのは、それが本当だからです。
「先例に照らして定む」の一行だけが、この回の毒です。ロザリンドがクラリッサとセドリックの縁を結び直せたのは、三年前の自分の判断が法ではなかったからでした。法になると、間違いも一緒に固まります。
「間違えて、おられますか」と聞き返される怖さを書きたい回でした。次話、その怖さが具体的な一件になって届きます。




