第32話:二百十四行目
灯りが、三度替わった。
「お嬢様。夜が明けます」
ハンナが新しい蝋を置いて、燃えかすを下げていく。何も言わない。何も聞かない。この人はいつも、必要なものだけを黙って置いていく。
紙は、机から溢れて床まで届いていた。
一行目、リューベルン王国との同盟婚。二行目、ヴァイス伯家長女。三行目——
書けば書くほど、手が思い出す。家の名。持参金の額。釣り合いの理屈。あの頃、わたしは毎晩これを組んでいた。
「二百と、十四」
最後の一行を書き終えて、わたしは顔を上げた。
窓の外が、白い。
「……ありません」
南嶺の外、という言葉は、二百十四行のどこにもなかった。
*
「無いのか」
背中で、声がした。
椅子で夜を明かした人が、腕を組んだまま、目だけを開けている。
「無いのです。臣下の縁組にも、同盟婚にも」
「では、書いていない」
「書いています」
わたしは首を振った。
「縁組の目録に無いということは、目録ではないところに書いたということです。……添状です」
同盟婚には、婚姻の条件そのものとは別に、添状をつける。持参金の勘定、後見の年限、土地の扱い。目録には残らない。残らないから、誰も数えない。
「添状というのは」
アルヴィン様が、床の紙を一枚拾い上げた。
「縁組が済めば、捨てるものか」
「いいえ。書庫に残ります」
「では、誰が読む」
「……次に、同じ家を扱う者だけです」
言ってから、自分で気づいた。
四年のあいだ、その書庫に入る鍵を持っていたのは、わたしと宰相だけだった。宰相は失脚した。わたしは追われた。
あの棚は、四年、誰も開けていない。
「リューベルンです」
わたしは、床の一行目を拾った。
「四年前。宰相が、王女様の持参金に南の土地を積もうとしました」
「南嶺の外を、か」
「はい。名も知らぬ土地でした。人が住んでいるのかどうかも、王都の誰も知らなかった。ですから宰相は、そこを『空いている』と扱いました。空いているものは、担保にできますから」
わたしは、あの夜のことを、思い出したくないほど鮮明に覚えている。
「わたしは、止めました」
*
止めるには、理屈が要った。
「他家の担保にできぬ土地だと書けば、宰相は積めなくなります。ですから、こう添えました」
——南嶺の外は、いずれの家門にも属さぬ。
「わたしは、守ったつもりでした」
言ってしまってから、自分の言葉の軽さに、ぞっとした。
アルヴィン様は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「属さぬ、は」
「はい」
「守らぬ、と、同じ言葉だ」
*
わかっていた。言われる前から、わかってはいた。
どの家門にも属さない土地は、どの家門も面倒を見ない。税は取られない代わりに、道も架けてもらえない。人が減っても、誰も数えぬままになる。
わたしは、担保にされないように囲いを作り、囲いの中に人がいるかどうかを確かめなかった。
確かめる手立ては、あのときも、あったのだ。
南の代官に問い合わせればよかった。返事が来るまでに二月かかる。二月あれば、宰相は別の担保を見つけて、王女様の縁は別の形で潰されていたかもしれない。
だから、待たなかった。
——待てば、目の前の縁がひとつ壊れる。待たなければ、見えないところで何かが壊れる。
わたしは、見えるほうを選んだ。選んだことすら、忘れていた。
「……わたしは」
「泣くな」
「泣いておりません」
「泣いている」
無骨な指が、わたしの目の下を一度だけ拭った。それから、その手はすぐ引っ込んだ。この人は、いつもそうだ。
「ロザ」
「はい」
「お前は、その一行を覚えていた」
「覚えていて、何になるのですか」
「忘れていた人間には、直せん」
*
その日の昼、王都から早馬が来た。
門のところで、マリカが飛び上がっている。
「ロザ様! 王都だって! また土下座しに来たんじゃない?」
「そういう言い方はおやめなさい」
早馬が持ってきたのは、封蝋の押された一通だった。
王家の紋。そして、見たことのない印。
わたしは、その場で開いた。
『縁定めロザリンド・アルシェットへ』
——叙勲する。
そう書いてあった。
「え。……え?」
マリカが、横から覗き込んで、目を丸くしている。
「勲章もらえるの? 王様から?」
「そのようです」
「え、じゃあ、ざまぁじゃん! あいつら、ついに認めたってこと?」
わたしは、その紙を、もう一度読んだ。
叙勲の理由が、細かい字で並んでいた。同盟婚七つ。臣下の縁組、およそ二百。国境の市の創設。
——およそ二百。
二百十四、ではなく。
わたしが数えたその数を、王都は数えていない。数えないまま、讃えようとしている。
「ロザ様?」
「……マリカ」
紙の端を、指がひとりでに握り潰していた。
「これを持ってくる人が、じきに来ます」
添状、というものを出しました。婚姻の条件そのものではなく、その脇に添える紙です。目録に残らないので、誰も数えません。
ロザリンドは宰相から土地を守るために「どの家門にも属さない」と書きました。守るための言葉が、そのまま「誰も守らない」に化ける。悪意も油断もなく、ただ、囲いの中を見なかった。彼女が四年間ずっと得意にしてきたのは「他人に見えないものが見える」ことでしたから、見なかったという事実だけで、この人には十分に効きます。
アルヴィンには、慰めさせませんでした。この人は言葉がうまくないぶん、いちばん正確なことを言ってしまいます。
叙勲の理由書に「およそ二百」と書いてあるのが、この回でいちばん書きたかった一行でした。次話、その紙を持ってきた人が辺境に着きます。




