第31話:読める人
祝言の翌朝は、羊の声で明けた。
「……起きろ」
「起きております」
「起きていない。目を閉じている」
「目を閉じているだけです。縁定めは、目を閉じていても人の縁は読めますので」
隣で、低く笑う声がした。この人が笑うのを、こんなに近くで聞いたのは、はじめてだ。
昨日、わたしは祭壇のまんなかに立った。輪の外の木陰ではなく。
思い出すだけで、まだ、うまく息ができない。
「ロザ様! 起きて!」
扉が、蹴るように開いた。
「起きてるよね? あたし、朝から三回来たけど」
「マリカ。……新婚の部屋を三度蹴った子は、たぶん、あなたが最初です」
「知らないよ、そんな作法」
マリカは、両手で何かを抱えていた。
読めない文字の、書状だった。
*
祝言の日から机に置かれたままのそれを、この子はずっと気にしていた。
『その縁は、結べますか』
末尾の一行だけが、わたしたちの文字だった。それより上は、見たこともない字が並んでいる。
「あたし、考えたんだけどさ」
橋を渡りながら、マリカが言う。
「読める人、いるじゃん。ひとりだけ」
国境の市は、朝から荷でいっぱいだった。胡椒の壺、塩の袋、名前を書いた木札。誰と誰が、どういう理由で——それだけを書いた帳面が、今日も開かれている。
その前に、レオノーラ様が立っていた。
「荷が四十三」
わたしを見るなり、そうおっしゃった。
「昨日より二つ増えましたわ。あなたの祝言は、やはり市にとって大変よろしゅうございます」
「公女殿下。……お願いがございます」
*
レオノーラ様は書状を受け取って、目を落とした。
そのまま、しばらく動かなかった。
「……読めますか」
「読めますわ」
顔は上げない。
「南のほうの、古い書き方ですの。わたくしの家の書庫に、同じ字の帳面が三冊ございました。誰も読みませんでしたけれど」
「では」
「縁定め」
呼び方は、変わらない。この方は、はじめからわたしを敬称で呼ばない。それが、この方の誠実だ。
「読み上げても、よろしくて」
「……お願いいたします」
レオノーラ様は、息を吸った。
*
「『エルデンフェルト王国、縁定めの君へ』」
市の音が、遠くなった。
「『わたしたちの谷は、南嶺の外にあります。国の帳面に、わたしたちの名はありません』」
「『三十年前まではありました。ある年、消えました』」
「『消えた年の書きつけを、谷の年寄りが覚えております。こう書いてあったそうです。——南嶺の外は、いずれの家門にも属さぬ』」
指の先が、冷たくなった。
「『それを書いたのは、あなただと聞きました』」
——違います。
そう言おうとして、言えなかった。
言えるはずがなかった。書いた覚えが、あったからだ。
「『あなたが結んだ縁のせいで、わたしたちの谷は、地図から消えました』」
レオノーラ様は、そこで一度止まった。
それから、末尾の一行を読んだ。わたしたちの文字で書かれた、あの一行を。
「『その縁は、結べますか』」
*
しばらく、誰も口をきかなかった。
荷を担いだ男が、わたしたちの後ろを通り過ぎていく。壺が触れ合って、乾いた音を立てた。市は、いつもどおりに動いている。
「縁定め」
レオノーラ様が、書状の縁を指でなぞった。
「この文には、ひとつ、妙なところがございますわ」
「……妙な」
「怒っておりませんの」
顔を上げて、はじめてわたしを見た。
「地図から消された者の文でしてよ。呪いのひとつも書いてよろしいはずですわ。それが、書いていない。ただ、消えました、と書いてある」
「……」
「怒りを書かない者は、二種類でしてよ。もう諦めた者と、返事を欲しがっている者と」
「公女殿下は、どちらだとお考えですか」
「わたくしには、わかりませんわ」
その方は、書状をわたしの手に戻した。
「わたくしは字が読めるだけですの。糸を読むのは、あなたのお仕事でしょう」
*
「……縁定め」
「あなた、顔の色が」
「大丈夫です」
「大丈夫な人間の色ではございませんわ」
マリカが、わたしの袖を掴んでいた。いつから掴んでいたのか、わからない。
「ロザ様。これ、嘘でしょ。誰かの言いがかりでしょ」
わたしは答えなかった。
四年。宮廷で縁定めをしていた、四年。
同盟婚を七つ。臣下の縁組を、二百と十四。
数えたのはわたしだけだった。だから覚えている。全部、覚えている。
覚えているから、わかってしまった。
——あの一行を、わたしは書いた。
「ロザ様」
「マリカ」
わたしは、その子の手をそっと外した。
「紙を、ありったけ持ってきてください。それと、灯りを」
「え」
「その縁は、結べません」
自分の声が、遠くで鳴っているようだった。
「——わたしが、結んだからです」
*
その夜、机に向かった。
目録の写しは持っていない。断罪の日に、何もかも取り上げられた。
だから、記憶から書き起こす。
一行目。二行目。三行目。
指が震えて、字が歪む。それでも書いた。
途中で、アルヴィン様が入ってきた。何も聞かず、灯りを一つ増やして、椅子を引いて座った。
「……お休みくださいませ」
「寝る」
「座っておいでです」
「ここで寝る」
そう言って、この人は腕を組んだまま目を閉じた。眠るつもりなど、まるでない座り方だった。
わたしは、また筆を動かした。
四年ぶん。二百と十四。
そのどこかに、ひとつの土地を消した一行がある。
書けば、思い出す。思い出したくないものまで、順番に。
——それでも、探さなければならない。
窓の外が、また白くなりはじめていた。
第三部『帳面にない縁』、はじまります。
第二部の最後、机の上に置きっぱなしにした書状を、いちばん気にしていたのはマリカでした。読める人がひとりだけいる、というのは、書きながら気づいたことです。レオノーラは嫁がずに市の後見人として残りましたが、彼女が持っている「外の国の文字が読める」という一点が、こんなところで効くとは思っていませんでした。
ロザリンドは、他人の縁は一目で読む人です。その人が、自分の書いた一行を思い出せてしまう。忘れていたのではなく、覚えていた。そこがいちばん痛いところだと思って書きました。
次話、彼女は二百十四行を最初から数え直します。




